ツの農夫はすこしわらってそれを見送ってゐましたが、ふと思ひ出したやうに右手をあげて自分の腕時計を見ました。そして不思議さうに、
「今度は合ってゐるな。」とつぶやきました。

      三、午后零時五十分

 午《ひる》の食事が済んでから、みんなは農夫室の火を囲んでしばらくやすんで居ました。炭火はチラチラ青い焔《ほのほ》を出し、窓ガラスからはうるんだ白い雲が、額もかっと痛いやうなまっ青なそらをあてなく流れて行くのが見えました。
「お前、郷里《くに》はどこだ。」農夫長は石炭函《せきたんばこ》にこしかけて両手を火にあぶりながら今朝来た赤シャツにたづねました。
「福島です。」
「前はどこに居たね。」
「六原《ろくはら》に居《を》りました。」
「どうして向ふをやめたんだい。」
「一ペん郷国《くに》へ帰りましてね、あすこも陰気でいやだから今度はこっちへ来たんです。」
「さうかい。六原に居たんぢゃ馬は使へるだらうな。」
「使へます。」
「いつまでこっちに居る積りだい。」
「ずっと居ますよ。」
「さうか。」農夫長はだまってしまひました。
 一人の農夫が兵隊の古外套《ふるぐゎいたう》をぬぎながら入って来ました。
「場長は帰ってゐるかい。」
「まだ帰らないよ。」
「さうか。」
 時計ががちっと鳴りました。あの蒼白《あをじろ》いつるつるの瀬戸でできてゐるらしい立派な盤面《ダイアル》の時計です。
「さあぢき一時だ、みんな仕事に行って呉れ。」農夫長が云ひました。
 赤シャツの農夫はまたこっそりと自分の腕時計を見ました。
 たしかに腕時計は一時五分前なのにその大きな時計は一時二十分前でした。農夫長はぢき一時だと云ひ、時計もたしかにがちっと鳴り、それに針は二十分前、今朝は進んでさっきは合ひ、今度は十五分おくれてゐる、赤シャツはぼんやりダイアルを見てゐました。
 俄《には》かに誰《たれ》かがクスクス笑ひました。みんなは続いてどっと笑ひました。すっかり今朝の通りです。赤シャツの農夫はきまり悪さうに、急いで戸をあけて脱穀小屋の方へ行きました。あとではまだみんなの気のよささうな笑ひ声にまじって、
「あいつは仲々気取ってるな。」
「時計ばかり苦にしてるよ。」といふやうな声が聞えました。

      四、

 日暮れからすっかり雪になりました。
 外ではちらちらちらちら雪が降ってゐます。
 農夫室には電燈が明るく点《つ》き、火はまっ赤に熾《おこ》りました。
 赤シャツの農夫は炉のそばの土間に燕麦《オート》の稈《わら》を一束敷いて、その上に足を投げ出して座り、小さな手帳に何か書き込んでゐました。
 みんなは本部へ行ったり、停車場まで酒を呑《の》みに行ったりして、室《へや》にはたゞ四人だけでした。
(一月十日、玉蜀黍《きみ》脱穀)と赤シャツは手帳に書きました。
「今夜積るぞ。」
「一尺は積るな。」
「帝釈《たいしゃく》の湯で、熊《くま》又捕れたってな。」
「さうか。今年は二疋目だな。」
 その時です。あの蒼白い美しい柱時計がガンガンガンガン六時を打ちました。
 藁《わら》の上の若い農夫はぎょっとしました。そして急いで自分の腕時計を調べて、それからまるで食ひ込むやうに向ふの怪しい時計を見つめました。腕時計も六時、柱時計の音も六時なのにその針は五時四十五分です。今度はおくれたのです。さっき仕事を終って帰ったときは十分進んでゐました。さあ、今だ。赤シャツの農夫はだまって針をにらみつけました。二人の炉ばたの百姓たちは、それを見て又面白さうに笑ったのです。
 さあ、その時です。いままで五時五十分を指してゐた長い針が俄《には》かに電《いなづま》のやうに飛んで、一ぺんに六時十五分の所まで来てぴたっととまりました。
「何だ、この時計、針のねぢが緩んでるんだ。」
 赤シャツの農夫は大声で叫んで立ちあがりました。みんなもも一度わらひました。
 赤シャツの農夫は、窓ぶちにのぼって、時計の蓋《ふた》をひらき、針をがたがた動かして見てから、盤に書いてある小さな字を読みました。
「この時計、上等だな。巴里《パリ》製だ。針がゆるんだんだ。」
 農夫は針の上のねぢをまはしました。
「修繕したのか。汝《うな》、時計屋に居たな。」炉のそばの年老《としと》った農夫が云ひました。若い農夫は、も一度自分の腕時計に柱時計の針を合せて、安心したやうに蓋をしめ、ぴょんと土間にはね降りました。
 外では雪がこんこんこんこん降り、酒を《の》呑みに出掛けた人たちも、停車場まで行くのはやめたらうと思はれたのです。



底本:「新修宮沢賢治全集 第十巻」筑摩書房
   1979(昭和54)年9月15日初版第1刷発行
   1983(昭和58)年4月20日初版第5刷発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2003年4月2日作成
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