つと胸が冷たくなつたやうに思ひました。そしていきなり近くの人たちへ、
「何かあつたんですか。」と叫ぶやうにききました。
「こどもが水へ落ちたんですよ。」一人が云ひますと、その人たちは一齊にジヨバンニの方を見ました。
 ジヨバンニはまるで夢中で橋の方へ走りました。
 橋の上は人でいつぱいで河が見えませんでした。
 白い服を着た巡査も出てゐました。
 ジヨバンニは橋の袂から飛ぶやうに下の廣い河原へおりました。
 その河原の水際に沿つてたくさんのあかりがせはしくのぼつたり下つたりしてゐました。向う岸の暗いどてにも灯が七つ八つうごいてゐました。そのまん中を、もう烏瓜のあかりもない川が、わづかに音を立てて灰いろに、しづかに流れてゐたのでした。
 河原のいちばん下流の方へ、洲のやうになつて出たところに人の集りがくつきり、まつ黒に立つてゐました。
 ジヨバンニはどんどんそつちへ走りました。するとジヨバンニはいきなりさつきカムパネルラといつしよだつたマルソに會ひました。マルソがジヨバンニに走り寄つて云ひました。
「ジヨバンニ、カムパネルラが川へはいつたよ。」
「どうして、いつ。」
「ザネリがね。舟の上から烏瓜のあかりを水の流れる方へ押してやらうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落つこちた。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまつた。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」
「みんな探してるんだらう。」
「ああ、すぐみんな來た。カムパネルラのお父さんも來た。けれども見つからないんだ。ザネリはうちへ連れられてつた。」
 ジヨバンニはみんなの居るそつちの方へ行きました。學生たちや町の人たちに圍まれて、青じろい尖つたあごをしたカムパネルラのお父さんが、黒い服を着てまつすぐに立つて、右手に時計を持つて、ぢつと見つめてゐたのです。
 みんなもぢつと河を見てゐました。誰も一言も物を云ふ人もありませんでした。ジヨバンニはわくわくわくわく足がふるへました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせはしく行つたり來たりして、黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れてゐるのが見えるのでした。
 下流の方の川はば一ぱい銀河が巨きく寫つて、まるで水のないそのままのそらのやうに見えました。
 ジヨバンニは、そのカムパネルラはもうあの銀河のはづれにしかゐないといふやうな氣がしてしかたなかつたのです。
 けれどもみんなはまだどこかの波の間から、
「ぼくずゐぶん泳いだぞ。」と云ひながらカムパネルラが出て來るか、或ひはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立つてゐて、誰かの來るのを待つてゐるかといふやうな氣がして仕方ないらしいのでした。
 けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきつぱり云ひました。
「もう駄目です。墜ちてから四十五分たちましたから。」
 ジヨバンニは思はずかけよつて、博士の前に立つて、ぼくはカムパネルラの行つた方を知つてゐます。ぼくはカムパネルラといつしよに歩いてゐたのです。と云はうとしましたが、もうのどがつまつて何とも云へませんでした。
 すると博士はジヨバンニが挨拶に來たとでも思つたものですか、しばらくしげしげとジヨバンニを見てゐましたが、
「あなたはジヨバンニさんでしたね。どうも今晩はありがたう。」と叮ねいに云ひました。
 ジヨバンニは何も云へずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんはもう歸つてゐますか。」博士は堅く時計を握つたまま、また聞きました。
「いいえ。」ジヨバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ、ぼくには一昨日大へん元氣な便りがあつたんだが。今日あたりもう着くころなんだが船が遲れたんだな。ジヨバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに來てくださいね。」さう云ひながら博士はまた、川下の銀河のいつぱいにうつつた方へ、ぢつと眼を送りました。
 ジヨバンニはもういろいろなことで胸がいつぱいで、なんにも云へずに、博士の前をはなれましたが、早くお母さんにお父さんの歸ることを知らせようと思ふと、牛乳を持つたまま、もう一目散に河原を街の方へ走りました。
 けれどもまたその中にジヨバンニの目には涙が一杯になつて來ました。
 街燈や飾り窓や色々のあかりがぼんやりと夢のやうに見えるだけになつて、いつたいじぶんがどこを走つてゐるのか、どこへ行くのかすらわからなくなつて走り續けました。
 そしていつかひとりでにさつきの牧場のうしろを通つて、また丘の頂に來て天氣輪の柱や天の川をうるんだ目でぼんやり見つめながら坐つてしまひました。
 汽車の音が遠くからきこえて來て、だんだん高くなりまた低くなつて行きました。
 その音をきいてゐるうちに、汽車と同じ調子のセロのやうな聲でたれかが歌つてゐるやうな氣持ちがしてきました。
 それはなつかしい星めぐりの歌を、くりかへしくりかへし歌つてゐるにちがひありませんでした。
 ジヨバンニはそれにうつとりきき入つてをりました。

       六 銀河ステーシヨン

 そしてジヨバンニはすぐうしろの天氣輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になつて、しばらく螢のやうに、ぺかぺか消えたりともつたりしてゐるのを見ました。それはだんだんはつきりして、とうとうりんとうごかないやうになり、濃い鋼青のそらにたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まつすぐにすきつと立つたのです。
 するとどこかでふしぎな聲が、銀河ステーシヨン、銀河ステーシヨンと云つたかと思ふと、いきなり眼の前が、ぱつと明るくなつて億萬の螢烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合。またダイアモンド會社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをしてかくしておいた金剛石を、誰かがいきなりひつくりかへしてばら撒いたといふ風に、眼の前がさあつと明るくなつて、ジヨバンニは思はず何べんも眼を擦つてしまひました。
 氣がついてみると、さつきから、ごとごとごとごと、ジヨバンニの乘つてゐる小さな列車が走りつづけてゐたのでした。ほんたうにジヨバンニは、夜の輕便鐵道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら坐つてゐたのです。車室の中は、青い天鵞絨を張つた腰掛けが、まるでがらあきで、向うの鼠いろのワニスを塗つた壁には、眞鍮の大きなぼたんが二つ光つてゐるのでした。
 すぐ前の席に、ぬれたやうにまつ黒な上着を着たせいの高い子供が、窓から頭を出して外を見てゐるのに氣が付きました。そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるやうな氣がして、さう思ふと、もうどうしても誰だかわかりたくつてたまらなくなりました。
 いきなりこつちも窓から顏を出さうとしたとき、俄かにその子供が頭を引つ込めて、こつちを見ました。
 それはカムパネルラだつたのです。ジヨバンニが、
「カムパネルラ、きみは前からここに居たの。」と云はうと思つたとき、カムパネルラが、
「みんなはね、ずゐぶん走つたけれども遲れてしまつたよ。ザネリもね、ずゐぶん走つたけれども追ひつかなかつた。」と云ひました。
 ジヨバンニは(さうだ、ぼくたちはいま、いつしよにさそつて出掛けたのだ。)とおもひながら、
「どこかで待つてゐようか。」と云ひました。
 するとカムパネルラは
「ザネリはもう歸つたよ。お父さんが迎ひにきたんだ。」
 カムパネルラは、なぜかさう云ひながら、少し顏いろが青ざめて、どこか苦しいといふふうでした。するとジヨバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるといふやうな、をかしな氣持ちがしてだまつてしまひました。
 ところがカムパネルラは、窓から外をのぞきながら、もうすつかり元氣が直つて、勢よく云ひました。
「ああしまつた。ぼく、水筒を忘れてきた。スケツチ帳も忘れてきた。けれど構はない。もうぢき白鳥の停車場だから。ぼく白鳥を見るなら、ほんたうにすきだ。川の遠くを飛んでゐたつて、ぼくはきつと見える。」
 そして、カムパネルラは、圓い板のやうになつた地圖を、しきりにぐるぐるまはして見てゐました。
 まつたく、その中に、白くあらはされた天の川の左の岸に沿つて一條の鐵道線路が、南へ南へとたどつて行くのでした。
 そしてその地圖の立派なことは、夜のやうにまつ黒な盤の上に、一々の停車場の三角標、泉水や森が、青や橙や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。
 ジヨバンニはなんだかその地圖をどこかで見たやうにおもひました。
「この地圖はどこで買つたの。黒曜石でできてるねえ。」ジヨバンニが云ひました。
「銀河ステーシヨンで、もらつたんだ。君もらはなかつたの。」
「ああ、ぼく銀河ステーシヨンを通つたらうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだらう。」
 ジヨバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。
「さうだ。おや、あの河原は月夜だらうか。」
 そつちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジヨバンニは云ひながら、まるではね上りたいくらゐ愉快になつて、足をこつこつ鳴らし、窓から顏を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら、一生けん命延びあがつて、その天の川の水を、見きはめようとしましたが、はじめはどうしてもそれがはつきりしませんでした。
 けれどもだんだん氣をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほつて、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のやうにぎらつと光つたりしながら、聲もなくどんどん流れて行き、野原にはあつちにもこつちにも、燐光の三角標が、うつくしく立つてゐたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではつきりし、近いものは青白く少しかすんで、或ひは三角形、或ひは四邊形、あるひは雷や鎖の形、さまざまにならんで、野原いつぱい光つてゐるのでした。ジヨバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんたうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくようにちらちらゆれたり顫へたりしました。
「ぼくはもう、すつかり天の野原に來た。」
 ジヨバンニは云ひました。
「それに、この汽車石炭をたいてゐないねえ。」
 ジヨバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。
「アルコールか電氣だらう。」カムパネルラが云ひました。
 するとちやうど、それに返事をするやうに、どこか遠くの遠くのもやの中から、セロのやうなごうごうした聲がきこえて來ました。
「ここの汽車は、ステイームや電氣でうごいてゐない。ただうごくやうにきまつてゐるからうごいてゐるのだ。ごとごと音をたててゐると、さうおまへたちは思つてゐるけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかりなれてゐるためなのだ。」
「あの聲、ぼくなんべんもどこかできいた。」
「ぼくだつて、林の中や川で、何べんも聞いた。」
 ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角標の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでも走つて行くのでした。
「あありんだうの花が咲いてゐる。もうすつかり秋だねえ。」カムパネルラが窓の外を指さして云ひました。
 線路のへりになつたみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたやうな、すばらしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。
「ぼく、飛び下りて、あいつをとつて、また飛び乘つてみせようか。」ジヨバンニは胸を躍らせて云ひました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行つてしまつたから。」
 カムパネルラが、さう云つてしまふかしまはないうちに次のりんだうの花がいつぱいに光つて過ぎて行きました。
 と思つたら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもつたりんだうの花のコツプが、湧くやうに、雨のやうに、眼の前を通り、三角標の列は、け
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