だけ見えます。潮を吹くと丁度本にあるやうになります。」
「くぢらなら大きいわねえ。」
「くぢら大きいです。子供だつているかぐらゐあります。」
「さうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ。」姉は細い銀いろの指輪をいぢりながらおもしろさうにはなししてゐました。
(カムパネルラ、僕もう行つちまふぞ。僕なんか鯨だつて見たことないや。)
 ジヨバンニはまるでたまらないほどいらいらしながら、それでも堅く唇を噛んでこらへて窓の外を見てゐました。
 その窓の外には海豚のかたちももう見えなくなつて川は二つにわかれました。そのまつくらな島のまん中に、高い高いやぐらが一つ組まれてその上に、一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶつた男が立つてゐました。そして兩手に赤と青の旗をもつてそらを見上げて信號してゐるのでした。
 ジヨバンニが見てゐる間、その人はしきりに赤い旗をふつてゐましたが、俄かに赤旗をおろしてうしろにかくすやうにし、青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のやうに烈しく振りました。すると空中にざあつと雨のやうな音がして、何かまつくろなものがいくかたまりもいくかたまりも、鐵砲彈のやうに川の向うの方へ飛んで行くのでした。ジヨバンニは思はず窓からからだを半分出して、そつちを見あげました。
 美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を、實に何萬といふ小さな鳥どもが幾組も幾組も、めいめいせはしくせはしく鳴いて通つて行くのでした。
「鳥が飛んで行くな。」ジヨバンニが窓の外で云ひました。
「どら。」カムパネルラもそらを見ました。
 そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は、俄かに赤い旗をあげて狂氣のやうにふりうごかしました。するとぴたつと鳥の群は通らなくなり、それと同時にぴしやあんといふ潰れたやうな音が川下の方で起つて、それからしばらくしいんとしました。と思つたらあの赤帽の信號手がまた青い旗をふつて叫んでゐたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その聲もはつきり聞えました。それといつしよにまた幾萬といふ鳥の群がそらをまつすぐにかけたのです。
 二人の顏を出してゐるまん中の窓からあの女の子が顏を出して、美しい頬をかがやかせながら大ぞらを仰ぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ。あらまあそらのきれいなこと。」女の子はジヨバンニにはなしかけました。けれどもジヨバンニは生意氣な、いやだいと思ひながら、だまつて口をむすんでそらを見あげてゐました。
 女の子は小さくほつと息をして、だまつて席へ戻りました。カムパネルラが氣の毒さうに窓から顏を引つ込めて地圖を見てゐました。
「あの人鳥へ教へてるんでせうか。」女の子がそつとカムパネルラにたづねました。
「わたり鳥へ信號してるんです。きつとどこからかのろしがあがるためでせう。」
 カムパネルラが少しおぼつかなささうに答へました。そして車の中はしいんとなりました。
 ジヨバンニはもう頭を引つ込めたかつたのですけれども、明るいとこへ顏を出すのがつらかつたので、だまつてこらへてそのまま立つて口笛を吹いてゐました。
(どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもつとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうつと向うにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしづめるんだ。)
 ジヨバンニは熱つて痛いあたまを兩手で押へるやうにして、そつちの方を見ました。
(ああほんたうにどこまでもどこまでも僕といつしよに行くひとはないだらうか。カムパネルラだつてあんな女の子とおもしろさうに話してゐるし、僕はほんたうにつらいなあ。)
 ジヨバンニの眼はまた泪でいつぱいになり、天の川もまるで遠くへ行つたやうにぼんやり白く見えるだけでした。
 そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るやうになりました。向う岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがつて、だんだん高くなつて行くのでした。そしてちらつと大きなたうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ、葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて、眞珠のやうな實もちらつと見えたのでした。
 それはだんだん數を増して來て、もういまは列のやうに崖と線路との間にならび、思はずジヨバンニが窓から顏を引つ込めて向う側の窓を見ましたときは、美しいそらの野原、地平線のはてまで、その大きなたうもろこしの木がほとんどいちめんに植ゑられてさやさや風にゆらぎ、その立派なちぢれた葉のさきからは、まるでひるの間にいつぱい日光を吸つた金剛石のやうに、露がいつぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光つてゐるのでした。
 カムパネルラが、
「あれたうもろこしだねえ。」とジヨバンニに云ひましたけれども、
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