ちゅう》の大きなぼたんが二つ光っているのでした。
すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ているのに気が付きました。そしてそのこどもの肩《かた》のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を出そうとしたとき、俄かにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。
それはカムパネルラだったのです。
ジョバンニが、カムパネルラ、きみは前からここに居たのと云おうと思ったとき、カムパネルラが
「みんなはねずいぶん走ったけれども遅《おく》れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」と云いました。
ジョバンニは、(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもいながら、
「どこかで待っていようか」と云いました。するとカムパネルラは
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎《むか》いにきたんだ。」
カムパネルラは、なぜかそう云いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるというような、おかしな気持ちがしてだまってしまいました。
ところがカムパネルラは、窓から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、勢《いきおい》よく云いました。
「ああしまった。ぼく、水筒《すいとう》を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構わない。もうじき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛んでいたって、ぼくはきっと見える。」そして、カムパネルラは、円い板のようになった地図を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったくその中に、白くあらわされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立派なことは、夜のようにまっ黒な盤《ばん》の上に、一一の停車場や三角標《さんかくひょう》、泉水や森が、青や橙《だいだい》や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。
「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ。」
ジョバンニが云いました。
「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの。」
「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだろう。」
ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指《さ》しました。
「そうだ。おや、あの河原《かわら》は月夜だろうか。」
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快《ゆかい》になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛《くちぶえ》を吹《ふ》きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼《め》の加減か、ちらちら紫《むらさき》いろのこまかな波をたてたり、虹《にじ》のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光《りんこう》の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或《ある》いは三角形、或いは四辺形、あるいは電《いなずま》や鎖《くさり》の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振《ふ》りました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫《ふる》えたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは云いました。
「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。
「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光《びこう》の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指さして云いました。
線路のへりになったみじかい芝草《しばくさ》の中に、月長石ででも刻《きざ》まれたような、すばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。
「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍《おど》らせて云いました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」
カムパネルラが、そう云ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。
と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧《わ》くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです。
七、北十字とプリオシン海岸
「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急《せ》きこんで云《い》いました。
ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙《だいだい》いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸《さいわい》になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫《さけ》びました。
「ぼくわからない。けれども、誰《たれ》だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。
俄《にわ》かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石《こんごうせき》や草の露《つゆ》やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床《かわどこ》の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光の射《さ》した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架《じゅうじか》がたって、それはもう凍《こお》った北極の雲で鋳《い》たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした。
「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶《すいしょう》の珠数《じゅず》をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈《いの》っているのでした。思わず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬《ほほ》は、まるで熟した苹果《りんご》のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。
そして島と十字架とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。
向う岸も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火《きつねび》のように思われました。
それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列でさえぎられ、白鳥の島は、二度ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつから乗っていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の尼《あま》さんが、まん円な緑の瞳《ひとみ》を、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝わって来るのを、虔《つつし》んで聞いているというように見えました。旅人たちはしずかに席に戻《もど》り、二人も胸いっぱいのかなしみに似た新らしい気持ちを、何気なくちがった語《ことば》で、そっと談《はな》し合ったのです。
「もうじき白鳥の停車場だねえ。」
「ああ、十一時かっきりには着くんだよ。」
早くも、シグナルの緑の燈《あかり》と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄《いおう》のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。
さわやかな秋の時計の盤面《ダイアル》には、青く灼《や》かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまいました。
〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
「ぼくたちも降りて見ようか。」ジョバンニが云いました。
「降りよう。」
二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口《かいさつぐち》へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫《むらさき》がかった電燈が、一つ点《つ》いているばかり、誰《たれ》も居ませんでした。そこら中を見ても、駅長や赤帽《あかぼう》らしい人の、影《かげ》もなかったのです。
二人は、停車場の前の、水晶細工のように見える銀杏《いちょう》の木に囲まれた、小さな広場に出ました。そこから幅《はば》の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。
さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩《かた》をならべて行きますと、二人の影は、ちょうど四方に窓のある室《へや》の中の、二本の柱の影のように、また二つの車輪の輻《や》のように幾本《いくほん》も幾本も四方へ出るのでした。そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原《かわら》に来ました。
カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌《てのひら》にひろげ、指できしきしさせながら、夢《ゆめ》のように云っているのでした。
「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。」
「そうだ。」どこでぼくは、そんなこと習ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
河原の礫《こいし》は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉《トパース》や、またくしゃくしゃの皺曲《しゅうきょく》をあらわしたのや、また稜《かど》から霧《きり》のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚《なぎさ》に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮《う》いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光《りんこう》をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。
川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えている崖《がけ》の下に、白い岩が、まるで運動場のように平らに川に沿って出ているのでした。そこに小さな五六人の人かげが、何か掘《ほ》り出すか埋めるかしてい
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