《くぐ》ったら不思議な音はもう切れ切れじゃなくなった。
そこで二人は元気を出して上着の袖《そで》で汗《あせ》をふきふきかけて行った。
そのうち音はもっとはっきりして来たのだ。ひょろひょろした笛《ふえ》の音も入っていたし、大喇叭《おおらっぱ》のどなり声もきこえた。ぼくにはみんなわかって来たのだよ。
『ネリ、もう少しだよ、しっかり僕《ぼく》につかまっておいで。』
ネリはだまってきれで包んだ小さな卵形の頭を振って、唇を噛《か》んで走った。
二人がも一度、樺の木の生えた丘《おか》をまわったとき、いきなり眼《め》の前に白いほこりのぼやぼや立った大きな道が、横になっているのを見た。その右の方から、さっきの音がはっきり聞え、左の方からもう一団《ひとかたま》り、白いほこりがこっちの方へやって来る。ほこりの中から、チラチラ馬の足が光った。
間もなくそれは近づいたのだ。ペムペルとネリとは、手をにぎり合って、息をこらしてそれを見た。
もちろん僕もそれを見た。
やって来たのは七人ばかりの馬乗りなのだ。
馬は汗をかいて黒く光り、鼻からふうふう息をつき、しずかにだくをやっていた。乗ってるものはみな赤シャツで、てかてか光る赤革《あかかわ》の長靴《ながぐつ》をはき、帽子《ぼうし》には鷺《さぎ》の毛やなにか、白いひらひらするものをつけていた。鬚《ひげ》をはやしたおとなも居れば、いちばんしまいにはペムペル位の頬《ほほ》のまっかな眼のまっ黒なかあいい子も居た。ほこりの為にお日さまはぼんやり赤くなった。
おとなはみんなペムペルとネリなどは見ない風して行ったけれど、いちばんしまいのあのかあいい子は、ペムペルを見て一寸《ちょっと》唇に指をあててキスを送ったんだ。
そしてみんなは通り過ぎたのだ。みんなの行った方から、あのいい音がいよいよはっきり聞えて来た。まもなくみんなは向うの丘をまわって見えなくなったが、左の方から又《また》誰《たれ》かゆっくりやって来るのだ。
それは小さな家ぐらいある白い四角の箱《はこ》のようなもので、人が四五人ついて来た。だんだん近くになって見ると、ついて居るのはみんな黒ん坊で、眼ばかりぎらぎら光らして、ふんどしだけして裸足《はだし》だろう。白い四角なものを囲んで来たのだけれど、その白いのは箱じゃなかった。実は白いきれを四方にさげた、日本の蚊帳《かや》のようなもんで、その下からは大きな灰いろの四本の脚《あし》が、ゆっくりゆっくり上ったり下ったりしていたのだ。
ペムペルとネリとは、黒人はほんとうに恐《こわ》かったけれど又|面白《おもしろ》かった。四角なものも恐かったけれど、めずらしかった。そこでみんなが過ぎてから、二人は顔を見合せた。そして
『ついて行こうか。』
『ええ、行きましょう。』と、まるでかすれた声で云ったのだ。そして二人はよほど遠くからついて行った。
黒人たちは、時々何かわからないことを叫《さけ》んだり、空を見ながら跳《は》ねたりした。四本の脚はゆっくりゆっくり、上ったり下ったりしていたし、時々ふう、ふうという呼吸の音も聞えた。
二人はいよいよ堅《かた》く手を握《にぎ》ってついて行った。
そのうちお日さまは、変に赤くどんよりなって、西の方の山に入ってしまい、残りの空は黄いろに光り、草はだんだん青から黒く見えて来た。
さっきからの音がいよいよ近くなり、すぐ向うの丘のかげでは、さっきのらしい馬のひんひん啼《な》くのも鼻をぶるるっと鳴らすのも聞えたんだ。
四角な家の生物が、脚を百ぺん上げたり下げたりしたら、ペムペルとネリとはびっくりして眼を擦《こす》った。向うは大きな町なんだ。灯《ひ》が一杯《いっぱい》についている。それからすぐ眼の前は平らな草地になっていて、大きな天幕《テント》がかけてある。天幕は丸太で組んである。まだ少しあかるいのに、青いアセチレンや、油煙《ゆえん》を長く引くカンテラがたくさんともって、その二階には奇麗《きれい》な絵看板がたくさんかけてあったのだ。その看板のうしろから、さっきからのいい音が起っていたのだ。看板の中には、さっきキスを投げた子が、二|疋《ひき》の馬に片っ方ずつ手をついて、逆立《さかだ》ちしてる処《ところ》もある。さっきの馬はみなその前につながれて、その他《ほか》にだって十五六疋ならんでいた。みんなオートを食べていた。
おとなや女や子供らが、その草はらにたくさん集って看板を見上げていた。
看板のうしろからは、さっきの音が盛《さか》んに起った。
けれどもあんまり近くで聞くと、そんなにすてきな音じゃない。
ただの楽隊だったんだい。
ただその音が、野原を通って行く途中《とちゅう》、だんだん音がかすれるほど、花のにおいがついて行ったんだ。
白い四角な家も、ゆっくりゆっくり中へはいって行ってしまった。
中では何かが細い高い声でないた。
人はだんだん増えて来た。
楽隊はまるで馬鹿のように盛んにやった。
みんなは吸いこまれるように、三人五人ずつ中へはいって行ったのだ。
ペムペルとネリとは息をこらして、じっとそれを見た。
『僕たちも入ってこうか。』ペムペルが胸をどきどきさせながら云った。
『入りましょう』とネリも答えた。
けれども何だか二人とも、安心にならなかったのだ。どうもみんなが入口で何か番人に渡《わた》すらしいのだ。
ペムペルは少し近くへ寄って、じっとそれを見た。食い付くように見ていたよ。
そしたらそれはたしかに銀か黄金《きん》かのかけらなのだ。
黄金をだせば銀のかけらを返してよこす。
そしてその人は入って行く。
だからペムペルも黄金をポケットにさがしたのだ。
『ネリ、お前はここに待っといで。僕|一寸《ちょっと》うちまで行って来るからね。』
『わたしも行くわ。』ネリは云ったけれども、ペムペルはもうかけ出したので、ネリは心配そうに半分泣くようにして、又看板を見ていたよ。
それから僕は心配だから、ネリの処に番しようか、ペムペルについて行こうか、ずいぶんしばらく考えたけれども、いくらそこらを飛んで見ても、みんな看板ばかり見ていて、ネリをさらって行きそうな悪漢は一人も居ないんだ。
そこで安心して、ペムペルについて飛んで行った。
ペムペルはそれはひどく走ったよ。四日のお月さんが、西のそらにしずかにかかっていたけれど、そのぼんやりした青じろい光で、どんどんどんどんペムペルはかけた。僕は追いつくのがほんとうに辛《つら》かった。眼がぐるぐるして、風がぶうぶう鳴ったんだ。樺《かば》の木も楊《やなぎ》の木も、みんなまっ黒、草もまっ黒、その中をどんどんどんどんペムペルはかけた。
それからとうとうあの果樹園にはいったのだ。
ガラスのお家が月のあかりで大へんなつかしく光っていた。ペムペルは一寸立ちどまってそれを見たけれども、又走ってもうまっ黒に見えているトマトの木から、あの黄いろの実のなるトマトの木から、黄いろのトマトの実を四つとった。それからまるで風のよう、あらしのように汗と動悸《どうき》で燃えながら、さっきの草場にとって返した。僕も全く疲《つか》れていた。
ネリはちらちらこっちの方を見てばかりいた。
けれどもペムペルは、
『さあ、いいよ。入ろう。』
とネリに云った。
ネリは悦《よろこ》んで飛びあがり、二人は手をつないで木戸口に来たんだ。ペムペルはだまって二つのトマトを出したんだ。
番人は『ええ、いらっしゃい。』と言いながら、トマトを受けとり、それから変な顔をした。
しばらくそれを見つめていた。
それから俄《にわ》かに顔が歪《ゆが》んでどなり出した。
『何だ。この餓鬼《がき》め。人をばかにしやがるな。トマト二つで、この大入の中へ汝《おまえ》たちを押《お》し込《こ》んでやってたまるか。失《う》せやがれ、畜生《ちくしょう》。』
そしてトマトを投げつけた。あの黄のトマトをなげつけたんだ。その一つはひどくネリの耳にあたり、ネリはわっと泣き出し、みんなはどっと笑ったんだ。ペムペルはすばやくネリをさらうように抱《だ》いて、そこを遁《に》げ出した。
みんなの笑い声が波のように聞えた。
まっくらな丘の間まで遁げて来たとき、ペムペルも俄かに高く泣き出した。ああいうかなしいことを、お前はきっと知らないよ。
それから二人はだまってだまってときどきしくりあげながら、ひるの象について来たみちを戻《もど》った。
それからペムペルは、にぎりこぶしを握りながら、ネリは時々|唾《つば》をのみながら、樺の木の生えたまっ黒な小山を越《こ》えて、二人はおうちに帰ったんだ。ああかあいそうだよ。ほんとうにかあいそうだ。わかったかい。じゃさよなら、私はもうはなせない。じいさんを呼んで来ちゃいけないよ。さよなら。」
斯《こ》う云ってしまうと蜂雀《はちすずめ》の細い嘴《くちばし》は、また尖《とが》ってじっと閉じてしまい、その眼は向うの四十雀《しじゅうから》をだまって見ていたのです。
私も大へんかなしくなって
「じゃ蜂雀。さようなら。僕又来るよ。けれどお前が何か云いたかったら云ってお呉《く》れ。さよなら、ありがとうよ。蜂雀、ありがとうよ。」
と云いながら、鞄《かばん》をそっと取りあげて、その茶いろガラスのかけらの中のような室《へや》を、しずかに廊下《ろうか》へ出たのです。そして俄かにあんまりの明るさと、あの兄妹のかあいそうなのとに、眼がチクチクッと痛み、涙《なみだ》がぼろぼろこぼれたのです。
私のまだまるで小さかったときのことです。
底本:「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫、新潮社
1989(平成元)年6月15日発行
1994(平成6)年6月5日13刷
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2005年3月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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