したのだ。いまにみろ、ぼくは卑怯《ひきょう》なやつらはみんな片《かた》っぱしから叩《たた》きつけてやるから。
[#ここで字下げ終わり]
一千九百二十七年八月廿一日
[#ここから1字下げ]
稲《いね》がとうとう倒《たお》れてしまった。ぼくはもうどうしていいかわからない。あれぐらい昨日《きのう》までしっかりしていたのに、明方《あけがた》の烈《はげ》しい雷雨《らいう》からさっきまでにほとんど半分倒れてしまった。喜作《きさく》のもこっそり行ってみたけれどもやっぱり倒れた。いまもまだ降《ふ》っている。父はわらって大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫だと云うけれどもそれはぼくをなだめるためでじつは大へんひどいのだ。母はまるでぼくのことばかり心配《しんぱい》している。ぼくはうちの稲が倒れただけなら何でもないのだ。ぼくが肥料《ひりょう》を教えた喜作のだってそれだけなら何でもない。それだけならぼくは冬に鉄道《てつどう》へ出ても行商《ぎょうしょう》してもきっと取《と》り返《かえ》しをつける。けれども、あれぐらい手入をしてあれぐらい肥料を考えてやってそれでこんなになるのならもう村はどこももっとよくなる見込《みこみ》はないのだ。ぼくはどこへも相談《そうだん》に行くとこがない。学校へ行ったってだめだ。……先生はああ倒れたのか、苗《なえ》が弱くはなかったかな、あんまり力を落《おと》してはいけないよ、ぐらいのことを云って笑《わら》うだけのもんだ。日誌《にっし》、日誌、ぼくはこの書きつける日誌がなかったら今夜どうしているだろう。せきはとめたし落し口は切ったし田のなかへはまだ入られないしどうすることもできずだまってあのぼしょぼしょしたりまたおどすように強くなったりする雨の音を聞いていなければならないのだ。いったいこの雨があしたのうちに晴れるだなんてことがあるだろうか。
ああどうでもいい、なるようになるんだ。あした雨が晴れるか晴れないかよりも、今夜ぼくが…………を一足つくれることのほうがよっぽどたしかなんだから。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店
1996(平成8)年3月25日初版発行
底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房
1995(平成7)年5月
※底本は、一つ目の「猿ヶ石」の「ヶ」(区点番号5−86)は大振りに、二つ目の「猿ヶ石」のそれは、小振りにつくっています。
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2009年8月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング