《つい》ては私共只今充分努力を致して居るのであります。仮令《たとえ》ば蛋白質をば少しく分解して割合簡単な形の消化し易《やす》いものを作る等であります。
第二に食事は一つの享楽である菜食によってその多分は奪《うば》われるとこれはやはり肉食者よりのお考であります。なるほど普通《ふつう》混食をしているときは野菜は肉類より美味しくないのですが、けれどももし肉類を食べるときその動物の苦痛を考えるならば到底《とうてい》美味しくはなくなるのであります。従って無理に食べても消化も悪いのであります。勿論《もちろん》菜食を一年以上もしますなれば仲々肉類は不愉快な臭《におい》や何かありまして好ましくないのであります。元来食物の味というものはこれは他の感覚と同じく対象よりはその感官自身の精粗《せいそ》によるものでありまして、精粗というよりは善悪によるものでありまして、よい感官はよいものを感じ悪い感官はいいものも悪く感ずるのであります。同じ水を呑《の》んでも徳のある人とない人とでは大へんにちがって感じます。パンと塩と水とをたべている修道院の聖者たちにはパンの中の糊精《こせい》や蛋白質|酵素《こうそ》単糖類脂肪などみな微妙《びみょう》な味覚となって感ぜられるのであります。もしパンがライ麦のならばライ麦のいい所を感じて喜びます。これらは感官が静寂《せいじゃく》になっているからです。水を呑んでも石灰の多い水、炭酸の入った水、冷たい水、又川の柔《やわ》らかな水みなしずかにそれを享楽することができるのであります。これらは感官が澄《す》んで静まっているからです。ところが感官が荒《す》さんで来るとどこ迄《まで》でも限りなく粗《あら》く悪くなって行きます。まあ大抵《たいてい》パンの本当の味などはわからなくなって非常に多くの調味料を用いたりします。則《すなわ》ち享楽は必らず肉食にばかりあるのではない。寧《むし》ろ清らかな透明な限りのない愉快と安静とが菜食にあるということを申しあげるのであります。」老人は会釈して壇を下り拍手は天幕《テント》もひるがえるようでした。祭司次長は立って異教席の方を見ました。異教席から瘠《や》せた顔色の悪いドイツ刈《が》りの男が立ちました。祭司次長は軽く会釈しました。その人も答礼して壇に上ったのです。その人は大へん皮肉な目付きをして式場全体をきろきろ見下してから云いました。
「今朝私
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