らでした。その証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央|分水嶺《ぶんすゐれい》の麓《ふもと》まで、一枚の板のやうになってずうっとひろがって居ました。たゞその大部分がその上に積った洪積の赤砂利や※[#「土+盧」、第3水準1−15−68]※[#「土+母」、102−13]《ローム》、それから沖積の砂や粘土や何かに被《おほ》はれて見えないだけのはなしでした。
それはあちこちの川の岸や崖《がけ》の脚には、きっとこの泥岩が顔を出してゐるのでもわかりましたし、又所々で掘り抜き井戸を穿《うが》ったりしますと、ぢきこの泥岩層にぶっつかるのでもしれました。
第二に、この泥岩は、粘土と火山灰とまじったもので、しかもその大部分は静かな水の中で沈んだものなことは明らかでした。たとへばその岩には沈んでできた縞《しま》のあること、木の枝や茎のかけらの埋もれてゐること、ところどころにいろいろな沼地に生える植物が、もうよほど炭化してはさまってゐること、また山の近くには細かい砂利のあること、殊に北上山地のヘりには所々この泥岩層の間に砂丘の痕《あと》らしいものがはさまってゐることなどでした。さうして見ると、いま北上の平原になってゐる所は、一度は細長い幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです。
ところが、第三に、そのたまり水が塩からかった証拠もあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、牡蠣《かき》や何か、半鹹《はんかん》のところにでなければ住まない介殻《かひがら》の化石が出ました。
さうして見ますと、第三紀の終り頃、それは或《あるい》は今から五六十万年或は百万年を数へるかも知れません、その頃今の北上の平原にあたる処は、細長い入海か鹹湖で、その水は割合浅く、何万年の永い間には処々水面から顔を出したり又引っ込んだり、火山灰や粘土が上に積ったり又それが削られたりしてゐたのです。その粘土は西と東の山地から、川が運んで流し込んだのでした。その火山灰は西の二列か三列の石英粗面岩の火山が、やっとしづまった処ではありましたが、やっぱり時々噴火をやったり爆発をしたりしてゐましたので、そこから降って来たのでした。
その頃世界には人はまだ居なかったのです。殊に日本はごくごくこの間、三四千年前までは、全く人が居なかったと云ひますから、もちろん誰《たれ》もそれを見てはゐなかったでせう。その誰
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