鞭《むち》のことを仰っしゃったんですか。この鞭はねえ、人を使う鞭ではありませんよ。馬を追う鞭ですよ。あっちへ馬が四疋も行ってますからねえ。そらね、こんなふうに。」
百姓はわたくしの顔の前でパチッパチッとはげしく鞭を鳴らしました。わたくしはさあっと血が頭にのぼるのを感じました。けれどもまた、いま争うときでないと考えて山羊の方を見ました。山羊はあちこち草をたべながら向うに行っていました。百姓はファゼーロの行った方へ行き、わたくしも山羊の方へ歩きだしました。山羊に追いついてからふりかえって見ますと畑いちめん紺いろの地平線までぎらぎらのかげろうで百姓の赤い頭巾もみんなごちゃごちゃにゆれていました。その向うの一そう烈しいかげろうの中でピカッと白くひかる農具と黒い影法師のようにあるいている馬と、ファゼーロかそれともほかのこどもか、しきりに手をふって馬をうごかしているのをわたくしは見ました。
二、つめくさのあかり
それからちょうど十日ばかりたって、夕方、わたくしが役所から帰って両手でカフスをはずしていましたら、いきなりあのファゼーロが、戸口から顔を出しました。そしてわたくしが、まだびっくりしているうちに、
「とうとう来たよ、今晩は。」と云いました。
「ああ、先頃はありがとう。地図はちゃんと仕度しておいたよ。この前の音は今でもするの。」
「するとも、昨夜なんかとてもひどいんだ。今夜はもうぼくどうしても探そうとおもって羊飼のミーロと二人で出て来たんだ。」
「うちの方は大丈夫かい。」
「うん。」ファゼーロは何だか少しあいまいに返事しました。
「きみの旦那はなかなか恐い人だねえ、何て云うんだ。」
「テーモだよ。」
「テーモ、やっぱし何だか聞いたような名だなあ。」
「聞いたかも知れない。あちこち役所へ果物だの野菜だの納めているんだから。」
「そうかねえ。とにかく地図はこれだよ。」
わたくしは戸口に買って置いた地図をひろげました。
「ミーロも呼んでもいいかい。」
「誰か来てるのか、いいとも。」
「ミーロ、おいで、地図を見よう。」
すると山羊小屋の中からファゼーロよりも三つばかり年上の、ちゃんときゃはんをはいて、ぼろぼろになった青い皮の上着を着た顔いろのいいわか者が出てきて、わたくしにおじぎしました。
「おや、ぼくは地図をよくわからないなあ、どっちが西だろう。」
「上の方が北だよ。そう置いてごらん。」ファゼーロはおもての景色と合せて地図を床に置きました。
「そら、こっちが東でこっちが西さ。いまぼくらのいるのはここだよ。この円くなった競馬場のここのとこさ。」
「乾溜工場はどれだろう。」ミーロが云いました。
「乾溜工場って、この地図にはないね、こっちかしら。」
わたくしは別のをひろげました。
「ないなあ、いつごろからあるんだい。」
「去年からだよ。」
「それじゃないんだ。この地図はもっと前に測量したんだから。その工場はどんなとこにあるの。」
「ムラードの森のはずれだよ。」
「ああ、これかしら、何の木だい、楢《なら》か樺《かば》だらう。唐檜やサイプレスではないね。」
「楢と樺だよ。ああこれか。ぼくはねえ、どうも昨夜の音はここから聞えたと思うんだ。」
「行こう行こう、行って見よう。」ファゼーロはもう地図をもってはねあがりました。
「わたしも行っていいかい。」
「いいとも、ぼくそう云いたくていたんだ。」
「じゃわたしも行こう。ちょっと待って。」
わたくしは大急ぎで仕度をしました。どうせ月は出るけれども地図が見えないといけないと思って、ガラス函のちょうちんも持ちました。
「さあ行こう。」わたくしは、ばたんと戸をしめてファゼーロとミーロのあとに立ちました。
日はもう落ちて空は青く古い池のようになっていました。そこらの草もアカシヤの木も一日のなかでいちばん青く見えるときでした。
わたくしどもはもう競馬場のまん中を横|截《ぎ》ってしまってまっすぐに野原へ行く小さなみちへかかっていました。ふりかえってみると、わたくしの家がかなり小さく黄いろにひかっていました。
「ポラーノの広場へ行けば何があるって云うの?」
ミーロについて行きながらわたくしはファゼーロにたずねました。
「オーケストラでもお酒でも何でもあるって。ぼくお酒なんか呑みたくはないけれど、みんなを連れて行きたいんだよ。」
「そうだって云ったねえ、わたしも小さいとき、そんなこと聞いたよ。」
「それに第一にね、そこへ行くと誰でも上手に歌えるようになるって。」
「そうそう、そう云った。だけどそんなことがいまでもほんとうにあるかねえ。」
「だって聞えるんだもの。ぼくは何もいらないけれども上手にうたいたいんだよ。ねえ。ミーロだってそうだろう。」
「うん。」ミーロもうなずきました。
元来ミーロなんかよほど歌がうまいのだろうとわたくしは思いました。
「ぼくは小さいときはいつでもいまごろ野原へ遊びに出た。」ファゼーロが云いました。
「そうかねえ。」
「するとお母さんが、行っておいで、ふくろうにだまされないようにおしって云うんだ。」
「何て云うって。」
「お母さんがね、行っておいで、ふくろうにだまされないようにおしって云うんだよ。」
「ふくろうに?」
「うん、ふくろうにさ。それはね、僕もっと小さいとき、それはもうこんなに小さいときなんだ、野原に出たろう。すると遠くで、誰だか食べた、誰だか食べた、というものがあったんだ。それがふくろうだったのよ。僕ばかな小さいときだから、ずんずん行ったんだ。そして林の中へはいってみちがわからなくなって泣いた。それからいつでも、お母さんそう云ったんだ。」
「お母さんはいまどこにいるの。」わたくしはこの前のことを思いだしながら、そっとたずねました。
「居ない。」ファゼーロはかなしそうに云いました。
「この前きみは姉さんがデストゥパーゴのとこへ行くかもしれないって云ったねえ。」
「うん、姉さんは行きたくないんだよ。だけど旦那が行けって云うんだ。」
「テーモがかい。」
「うん、旦那は山猫博士がこわいんだからねえ。」
「なぜ山猫博士って云うんだ。」
「ぼくよくわからない。ミーロは知ってるの?」
「うん。」ミーロはこっちをふりむいて云いました。
「あいつは山猫を釣ってあるいて外国へ売る商売なんだって。」
「山猫を? じゃ動物園の商売かい。」
「動物園じゃないなあ。」ミローもわからないというふうにだまってしまいました。
そのときはもう、あたりはとっぷりくらくなって西の地平線の上が古い池の水あかりのように青くひかるきり、そこらの草も青|黝《ぐろ》くかわっていました。
「おや、つめくさのあかりがついたよ。」ファゼーロが叫びました。
なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならび、そこらはむっとした蜂蜜のかおりでいっぱいでした。
「あのあかりはねえ、そばでよく見るとまるで小さな蛾の形の青じろいあかりの集りだよ。」
「そうかねえ、わたしはたった一つのあかしだと思っていた。」
「そら、ね、ごらん、そうだろう、それに番号がついてるんだよ。」
わたしたちはしゃがんで花を見ました。なるほど一つ一つの花にはそう思えばそうというような小さな茶いろの算用数字みたいなものが書いてありました。
「ミーロ、いくらだい。」
「一千二百五十六かな、いや一万七千五十八かなあ。」
「ぼくのは三千四百二十……六だよ。」
「そんなにはっきり書いてあるかねえ。」
わたくしにはどうしても、そんなにはっきりは読むことができませんでした。けれども花のあかりは、あっちにもこっちにももうそこらいっぱいでした。
「三千八百六十六、五千まで数えればいいんだから、ポラーノの広場はもうじきそこらな筈なんだけれども。」
「だってさっぱりきみらの云うような、いい音はしないじゃないか。」
「いまに聞えるよ。こいつは二千五百五十六だ。」
「その数字を数えるというのはきっとだめだよ。」
とうとうわたくしは云いました。
「どうして?」ファゼーロもミーロもまっすぐに立ってわたくしを見ています。
「なぜって第一わたしは花にそんな数字が書いてあるのでなくて、それはこっちの目のまちがいだろうと思うんだ。もしほんとうにいまにその音が聞えてきたら、まっすぐにそっちに行くのがいちばんいいだろうと思うんだ。とにかくもっとさきへ行ってようじゃないか。ここらならわたしだって度々来ているんだから。ここらはまだあの岐れみちのまっ北ぐらいにしかなってないんだ。ムラードの森なんか、まだよっぽどあるだろう。ねえ、ミーロ君。」
「よっぽどあるとも。」
「じゃ、行こう、まあもっと行って花の番号を見てごらん。やっぱり二千とか三千とかだから。」
ミーロはうなずいてあるきだしました。ファゼーロもだまってついて行きました。わたくしどもは、じつにいっぱいに青じろいあかりをつけて、向うの方はまるで不思議な縞《しま》物のやうに幾条にも縞になった野原を、だまってどんどんあるきました。その野原のはずれのまっ黒な地平線の上では、そらがだんだんにぶい鋼《はがね》のいろに変って、いくつかの小さな星もうかんできましたし、そこらの空気もいよいよ甘くなりました。そのうち何だかわたくしどもの影が前の方へ落ちているようなので、うしろを振り向いて見ますと、おお、はるかなモリーオの市のぼぉっとにごった灯照りのなかから、十六日の青い月が奇体に平べったくなって半分のぞいているのです。わたくしどもは思わず声をあげました。ファゼーロは、そっちへ挨拶するように両手をあげてはねあがりました。
にわかにぼんやり青白い野原の向うで、何かセロかバスのやうな顫いがしずかに起りました。
「そら、ね、そら。」ファゼーロがわたくしの手を叩きました。
わたくしもまっすぐに立って耳をすましました。音はしずかにしずかに呟《つぶ》やくようにふるえています。けれどもいったいどっちの方か、わたくしは呆れてつっ立ってしまいました。もう南でも西でも北でもわたくしどもの来た方でも、そう思って聞くと、地面の中でも、高くなったり、低くなったり、たのしそうに、たのしそうに、その音が鳴っているのです。
それはまた一つや二つではないようでした。消えたりもつれたり、一所になったり、何とも云われないのです。
「まるで昔からのはなしの通りだねえ。わたしはもうわからなくなってしまった。」
「番号はここらもやっぱり二千三百ぐらいだよ。」ファゼーロが月が出て一そう明るくなった、つめくさの灯をしらべて云いました。
「番号なんか、あてにならないよ。」わたくしも屈《かが》みました。
そのときわたくしは一つの花のあかしから、も一つの花へ移って行く黒い小さな蜂を見ました。
「ああ、蜂が、ごらん、さっきからぶんぶんふるえているのは、月が出たので蜂が働きだしたのだよ。ごらん、もう野原いっぱい蜂がいるんだ。」
これでわかったろうとわたくしは思いましたが、ミーロもファゼーロもだまってしまってなかなか承知しませんでした。
「ねえ、蜂だろう。だからあんなに野原中どこから来るか知れなかったんだよ。」
ミーロがやっと云いました。
「そうでないよ。蜂ならぼくはずっと前から知っているんだ。けれども昨夜はもっとはっきり人の笑い声などまで聞えたんだ。」
「人の笑い声、太い声でかい。」
「いいや。」
「そうかねえ。」
わたくしはまたわからなくなって腕を組んで立ちあがってしまいました。
そのときでした。野原のずうっと西北の方で、ぼお、とたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもわず身ぶるいしました。野原ぜんたいに誰か魔術でもかけているか、そうでなければ昔からの云い伝え通り、ひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしは却ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしてい
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