ふりました。
「それは誤解です、誤解です。あの子どもは、わたくしは知りません。」
「いったいそんならあなたは、なぜこんなところへかくれたのですか。」
 デストゥパーゴはまっ青になりました。
「イーハトーヴォの警察ではファゼーロといっしょにあなたをさがしているのです。もうすっかり手配がついています。今夜はどうなってもあなたは捕まります。ファゼーロはどこにいるのです。」わたくしは思わず、うそをついてしまいました。
 デストゥパーゴは、毒蛾のためにふくれておかしな格好になった顔でななめにわたくしを見ながら、ぶるぶるふるえて、まるで聞きとれないくらい早口に云いました。
「そんな筈はない、そんな筈はない。名誉にかけて、紳士の名誉にかけて。」
「なぜそんならあなたはこんなところへかくれたのです。」
 デストゥパーゴはようやくふるえるのをやめて、しばらく考えていましたが、ようやく少しゆっくり云いました。
「わたくしは警察からは召喚《しょうかん》されただけで、それは旅行届を出して代人を出してある筈です。それに就ては署長に充分諒解を得てあります。警察では、わたくしに何の嫌疑もかけていない筈です。」
「それならなぜ旅行届を出したりして遁げたのです。」
 デストゥパーゴはやっと落ち着きました。
「いや、おはいりください。詳しくお話しましょう。」
 デストゥパーゴはさきに立って小さな玄関の戸を押しました。するとさっきから内側で立って見ていたと見えて一人のおばあさんが出迎えました。
「お茶をあげてくれ。」
 デストゥパーゴはすぐ右側の室へはいって行きました。わたくしはもう多分大丈夫だけれども遁げるといけないと思って戸口に立っていました。デストゥパーゴは何か瓶をかちかち鳴らしてから白いきれで顔を押えながら出て来ました。
「さあ、どうぞこちらへ。」
 わたくしは応接室に通されました。デストゥパーゴはようやく落ち着きました。
「わたくしがここへ人を避けて来ているのは全くちがった事情です。じつはあなたもご承知でしょうが、あの林の中でわたくしが社長になって木材乾溜の会社をたてたのです。ところがそれがこの頃の薬品の価格の変動でだんだん欠損になって、どうにもしかたなくなったのです。わたくしはいろいろやって見ましたがどうしてもいけなかったのです。もちろんあの事業にはわたくしの全財産も賭《と》してあります。すると重役会で、ある重役がそれをあのまま醸造《じょうぞう》所にしようということを発議しました。そこでわたくしどもも賛成して試験的にごくわずか造って見たのですが、それを税務署へ届け出なかったのです。ところがそれをだしにして、わたくしのある部下のものがわたくしを脅迫しました。あの晩はじつに六《むず》ヵしい場合でした。あすこに来ていたのはみんな株主でした。わざとあすこをえらんだのです。ところが株主の反感は非常だったのです。わたくしももうやけくそになって、ああいう風に酔っていたのです。そこへあなたが出て来たのですからなあ。」
 わたくしははじめてあの頃のことがはっきりして来ました。それといっしょに眼の前にいるデストゥパーゴがかあいそうにもなりました。
「いや、わかりました。けれども、ああ、ファゼーロはどうしたろうなあ。」
 デストゥパーゴが云いました。
「わたくしはあの子どもを憎んで居りません。わたくしに前のようないい条件があれば世話して学校にさえ入れたいのです。けれどもあの子どもはきっとどこかで何かしていますぞ。警察でもそう見ています。」
 わたくしはいきなり立ってデストゥパーゴに別れを告げました。
「ではわたくしは帰ります。あなたはここをどうかお立ち退きください。わたくしは帰ってこの事情を云わないわけにも参りませんから。」
 デストゥパーゴはしょんぼりとして云いました。
「いまわたくしは全く収入のみちもないのです。どうか諒解してください。」
 わたくしは礼をしました。
「ロザーロは変りありませんか。」デストゥパーゴが大へん早口に云いました。
「ええ、働いているようです。」わたくしもなぜか、ふだんとちがった声で云いました。

       六、風と草穂

 九月一日の朝わたくしは、旅程表やいろいろな報告を持って、きまった時間に役所に出ました。わたくしはみんなにも挨拶して廻り、所長が出て来るや否や、その扉をノックしてはいって行きました。
「あ帰ったかね。どうだった。」所長は左手ではずれたカラーのぼたんをはめながら云いました。
「はい、お陰で昨晩戻って参りました。これは報告でございます。集めた標本類は整理いたしましてから目録をつくって後ほど持って参ります。」
「うん、そう急がないでもよろしい。」所長はカラーをはめてしまってしゃんとなりました。
 わたくしは礼をして室を出ました。
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