りました。
 すると俄《にわ》かに私の隣りの人が、
「あ、いけない、いけない、押えてくれたまえ。畜生、畜生。」とひどく高い声で叫んだのです。
 びっくりして私はそっちを見ました。アーティストたちもみな馳《は》せ集ったのです。その叫んだ人は、それこそはひげを片っ方だけ剃ったままで大へん瘠《や》せては居りましたが、しかしたしかにそれはデストゥパーゴです。わたくしは占《し》めたとおもいました。デストゥパーゴはわたくしなぞ気がつかずに、まだ怖ろしそうに顔をゆがめていました。
「どこへさわりましたのですか。」
 さっきの親方のアーティストが麻のモーニングを着て、大きなフラスコを手にしてみんなを押し分けて立っていました。そのうちに二三人のアーティストたちは、押虫網でその小さな黄色な毒蛾をつかまえてしまいました。
「ここだよ、ここだよ。早く。」と云いながら、デストゥパーゴは左の眼の下を指しました。
 親方のアーティストは、大急ぎで、フラスコの中の水を綿にしめしてその眼の下をこすりました。
「何だいこの薬は。」デストゥパーゴが叫びました。
「アンモニア二%液。」と親方が落ち着いて答えました。
「アンモニアは効かないって、今朝の新聞にあったじゃないか。」
 デストゥパーゴは椅子から立ちあがりました。デストゥパーゴは桃いろのシャツを着ていました。
「どの新聞でご覧です。」親方は一層落ちついて答えました。
「センダート日日新聞だ。」
「それは間違いです。アンモニアの効くことは県の衛生課長も声明しています。」
「あてにならん。」
「そうですか。とにかく、だいぶ腫《は》れて参ったようです。」
 親方のアーティストは、少ししゃくにさわったと見えて、プイッとうしろを向いて、フラスコを持ったまま向うへ行ってしまいました。デストゥパーゴは、ぷんぷん怒りだしました。
「失敬じゃないか、あしたは僕は陸軍の獣医官たちと大事な交際があるんだぞ。こんなことになっちゃ、まるで向うの感情を害するばかりだ。きさまの店を訴えるぞ。」と云いながら、ずんずん赤くはれて行く頬を鏡で見ていました。
 親方も、むかっ腹を立てて云いました。
「なあに毒蛾なんか、市中到る処に居るんだ。町をあるいてさわられたら市長でも訴えたらよかろうさ。」
 デストゥパーゴは、渋々、又椅子に坐って、
「おい、早くあとをやってしまって呉れ。早く。」と云いました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげを剃らせていました。
 わたくしも急ぎました。けれどもたしかにわたくしの方が早く済むのです。それでも向うがさきに済んだら、こっちもすぐ立とうと思ってそっと財布をさぐって、大きな銀貨を一枚もって握っていました。ところがどういうわけか、私より私のアーティストがもっと急いで居りました。そしてしきりに時計を見ました。
 まるで私の顔などは、三十五秒ぐらいで剃ってしまったのです。
「さあお洗いいたしましょう。」
 私はデストゥパーゴに知れないように、手で顔をかくしながら大理石の洗面器の前に立ちました。
 アーティストは、つめたい水でシャアシャアと私の頭を洗い時々は指で顔も拭《ぬぐ》いました。
 それから、私は、自分で勝手に顔を洗いました。そして、も一度椅子にこしかけたのです。
 その時親方が、
「さあもう一分だぞ。電気のあるうちに大事なところは済ましちまえ。それからアセチレンの仕度はいいか。」
「すっかり出来ています。」小さな白い服の子供が云いました。
「持って来い。持って来い。あかりが消えてからじゃ遅いや。」親方が云いました。
 そこでその子供の助手が、アセチレン燈を四つ運び出して、鏡の前にならべ、水を入れて火をつけました。烈しく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電燈がすっと消えたのです。電燈のかわりのアセチレンで、あたりがすっかり青く変りました。
 それから私は、鏡に映っている海の中のような、青い室の黒く透明なガラス戸の向うで、赤い昔の印度を偲《しの》ばせるような火が燃されているのを見ました。一人のアーティストが、そこでしきりに薪《まき》を入れていたのです。
「今夜は、毒蛾も全滅だな。」誰か向うで云いました。
「さあどうかねえ。」私のとこのアーティストは、私の頭に、金口の瓶から香水をかけながら答えました。
 それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、
「ちょっと見て呉れ。」と云いました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち、あるいはたき火のそばまで行って、外の景色をながめていましたが、この時大急ぎでみんな私のうしろに集まりました。そして鏡の中の私の顔を、
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