はファゼーロで、ちゃんとどこかにいるというような気がしてきたのです。

       五、センダード市の毒蛾

 そしてだんだん暑くなってきました。役所では窓に黄いろな日覆《ひおおい》もできましたし隣りの所長の室には電気会社から寄贈になった直径七デシもある大きな扇風機も据《す》えつけられました。あまり暑い日の午後などは所長が自分で立って間の扉をあけて、
「さあ諸君、少し風にあたりたまえ。」なんて云ったものです。
 すると大扇風機から風がどうどうやって来ました。尤《もっと》も私の席はその風の通り路からすこし外れていましたから格別涼しかったわけでもありませんでしたが、それでも向うの書類やテーブルかけが、ぱたぱた云っているのを見るのは実際愉快なことでした。それでもそんな仕事のあいまに、ふっとファゼーロのことを思いだすと、胸がどかっと熱くなってもうどうしたらいいかわからなくなるのでした。とにかくその七月いっぱいに私のした仕事は、
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一、北極熊|剥製《はくせい》方をテラキ標本製作所に照会の件
一、ヤークシャ山頂火山弾運搬費用|見積《みつもり》の件
一、植物標本|褪色《たいしょく》調査の件
一、新番号札二千三百枚調製の件
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 などでした。
 そして八月に入りました。その八月二日の午すぎ、わたくしが支那漢時代の石に刻んだ画の説明をうつらうつら写していましたら、給仕がうしろからいきなりわたくしの首すじを突っついて、
「所長さんが来いって。」といいました。
 わたくしはすこしむっとしてふり返りましたら給仕はまた威張って云いました。
「所長さんがすぐ来いって。」
 わたくしは返事もしないでだまってみんなの椅子のうしろを通り、例の扉をあけて恭※[#二の字点、1−2−22]しくはいって行きました。
 所長は肥った白い手首に※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]をもたせて扇風機にあたりながら新聞を見ていましたが、わたくしが行くとだるそうにちょっと眼をあげて、それから机の上の紙挾みから一枚の命令書をわたくしによこしました。それには、
「海岸鳥類の卵採集の為に八月三日より二十八日間イーハトーヴォ海岸地方に出張を命ず。」
 と書いてありました。わたくしはまるでほくほくしてしまいました。
 あのイーハトーヴォの岩礁の多い奇麗《きれい》な海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせというのはこれは慰労《いろう》休暇のつもりなのだ。それほどわたくしが所長にもみんなにも働いていると思われていたのか、ありがたいありがたいと心の中で雀躍《じゃくやく》しました。すると所長は私の顔は少しも見ないで、やっぱり新聞を見ながら、
「会計へまわって見積《みつもり》旅費を受けとるように。」と一言だけ云いました。
 わたくしは叮嚀《ていねい》に礼をして室を出ました。それからその辞令をみんなに一人ずつ見せて挨拶してあるき、おしまいに会計に行きましたら、会計の老人はちょっと渋い顔付きはしていましたが、だまってわたくしの印を受け取って大きな紙幣を八枚も渡してくれました。ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借りました。うちへ帰ると、わたくしは持っていたレコードをみんな町の古時計屋へ売ってしまいました。そして大きなへりのついたパナマの帽子と卵いろのリンネルの服を買いました。
 次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし、一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬《みさき》から岬へ、岩礁《がんしょう》から岩礁へ、海藻《かいそう》を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのような下給の官吏でも大へん珍らしがって、どこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡ろうとすると、みんなは船に赤や黄の旗を立てて十六人もかかって櫓《ろ》をそろえて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかがりをたいて、いろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいいと思いました。けれどもファゼーロ、あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいているうつくしいロザーロ、そう考えて見るといまわたくしの眼のまえで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを、踊ったりうたったりしている娘たちや若者たち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこころに誓いました。
 そして八月三十日の午ごろ、わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行
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