覧になりませんでしたでしょうか。」
 みんなは顔を見合せました。それから一人が答えました。
「さあ、わたくしどもはまっすぐに来ただけですから。」
 そうだ、山羊が迷って出たときに人のようにみちを歩くのではないのです。わたくしはおじぎしました。
「いや、ありがとうございました。」女たちは行ってしまいました。もう戻ろう、けれどもいま戻るとあの女の人たちを通り越して行かなければならない、まあ散歩のつもりでもすこし行こう、けれどもさっぱりたよりない散歩だなあ、わたくしはひとりでにがわらいしました。そのとき向うから二十五六になる若者と十七ばかりのこどもとスコップをかついでやって来ました。もう仕方ない、みかけだけにたずねて見よう、わたくしはまたおじぎしました。
「山羊が一疋迷ってこっちへ来たのですが、ごらんになりませんでしたでしょうか。」
「山羊ですって、いいえ。連れてあるいて遁《に》げたのですか。」
「いいえ、小屋から遁げたんです。いや、ありがとうございました。」
 わたくしはおじぎをしてまたあるきだしました。するとそのこどもがうしろで云いました。
「ああ、向うから誰か来るなあ。あれそうでないかなあ。」
 わたくしはふりかえって指ざされたほうを見ました。
「ファゼーロだな、けれども山羊かなあ。」
「山羊だよ。ああきっとあれだ。ファゼーロがいまごろ山羊なんぞ連れてあるく筈ないんだから。」
 たしかにそれは山羊でした。けれどもそれは別ので売りに町へ行くのかもしれない、まああの指導標のところまで行って見よう、わたくしはそっちへ近づいて行きました。一人の頬の赤いチョッキだけ着た十七ばかりの子どもが、何だかわたくしのらしい雌《めす》の山羊の首に帯皮をつけて、はじを持ってわらいながらわたくしに近よって来ました。どうもわたくしのらしいけれども何と云おうと思いながら、わたくしはたちどまりました。すると子どもも立ちどまってわたくしにおじぎしました。
「この山羊はおまえんだろう。」
「そうらしいねえ。」
「ぼく出てきたらたった一疋で迷っていたんだ。」
「山羊もやっぱり犬のように一ぺんあるいた道をおぼえているのかねえ。」
「おぼえてるとも。じゃ。やるよ。」
「ああ、ほんとうにありがとう。わたしはねえ、顔も洗わないで探しに来たんだ。」
「そんなに遠くから来たの。」
「ああ、わたしは競馬場に居るからねえ。」
「あすこから?」
 子どもは山羊の首から帯皮をとりながら畑の向うでかげろうにぎらぎらゆれている、やっと青みがかったアカシヤの列を見ました。
「すいぶん遠くまで来たんだねえ。」
「ああ、じゃ、僕こっちへ行くんだから。さよなら。」
「あ、ちょっと待って。ぼくなにかあげたいんだけれどもなんにもなくてねえ。」
「いいや、ぼくなんにもいらないんだ。山羊を連れてくるのは面白かった。」
「だけれどねえ、それではわたしが気が済まないんだよ。そうだ、あなたは鎖はいらないの。」
 わたくしは時計の鎖なら、なくても済むと思いながら銀の鎖をはずしました。
「いいや。」
「磁石もついてるよ。」
 すると子どもは顔をぱっと熱《ほて》らせましたが、またあたりまえになって、
「だめだ、磁石じゃ探せないから。」とぼんやり云いました。
「磁石で探せないって?」私はびっくりしてたずねました。
「ああ。」子どもは何か心もちのなかにかくしていたことを見られたというように少しあわてました。
「何を探すっていうの。」
 子どもはしばらくちゅうちょしていましたが、とうとう思い切ったらしく云いました。
「ポラーノの広場。」
「ポラーノの広場? はてな、聞いたことがあるようだなあ。何だったろうねえ、ポラーノの広場。」
「昔ばなしなんだけれども、このごろまたあるんだ。」
「ああそうだ、わたしも小さいとき何べんも聞いた。野はらのまんなかの祭のあるとこだろう。あのつめくさの花の番号を数えて行くというのだろう。」
「ああ、それは昔ばなしなんだ。けれども、どうもこの頃もあるらしいんだよ。」
「どうして。」
「だってぼくたちが夜野原へ出ていると、どこかでそんな音がするんだもの。」
「音のする方へ行ったらいいんでないか。」
「みんなで何べんも行ったけれども、わからなくなるんだよ。」
「だって、聞えるくらいならそんなに遠い筈はないねえ。」
「いいや、イーハトーヴォの野原は広いんだよ。霧のある日ならミーロだって迷うよ。」
「そうさねえ、だけど地図もあるからねえ。」
「野原の地図ができてるの。」
「ああ、きっと四枚ぐらいにまたがってるねえ。」
「その地図で見ると路でも林でもみんなわかるの。」
「いくらか変っているかもしれないが、まあ大体はわかるだろう。じゃ、お礼にその地図を買って送ってあげようか。」
「うん。」子どもは顔を赤くし
前へ 次へ
全24ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング