っちへ一寸手を延ばしたのでした。

      五、峠

「楢夫」と一郎は叫んだと思ひましたら俄《には》かに新しいまっ白なものを見ました。それは雪でした。それから青空がまばゆく一郎の上にかかってゐるのを見ました。
「息|吐《つい》だぞ。眼|開《あ》ぃだぞ。」一郎のとなりの家の赤髯《あかひげ》の人がすぐ一郎の頭のとこに曲《かが》んでゐてしきりに一郎を起さうとしてゐたのです。そして一郎ははっきり眼を開きました。楢夫を堅く抱いて雪に埋まってゐたのです。まばゆい青ぞらに村の人たちの顔や赤い毛布や黒の外套《ぐわいたう》がくっきりと浮んで一郎を見下してゐるのでした。
「弟ぁなぢょだ。弟ぁ。」犬の毛皮を着た猟師が高く叫びました。となりの人は楢夫の腕をつかんで見ました。一郎も見ました。
「弟ぁわがなぃよだ。早ぐ火|焚《た》げ」となりの人が叫びました。
「火焚ぃでわがなぃ。雪さ寝せろ。寝せろ。」
 猟師が叫びました。一郎は扶《たす》けられて起されながらも一度楢夫の顔を見ました。その顔は苹果《りんご》のやうに赤くその唇はさっき光の国で一郎と別れたときのまゝ、かすかに笑ってゐたのです。けれどもその眼はとぢその息は絶えそしてその手や胸は氷のやうに冷えてしまってゐたのです。



底本:「宮沢賢治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年3月25日第1刷発行
   1992(平成4)年3月10日第6刷発行
入力:あきら
校正:伊藤時也
2000年2月4日公開
2005年10月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全10ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング