ものが横になっているのでした。ちょうど二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。

 一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るときいままで言ったことのないことを言った。
「婆《ば》さま、おれも年|老《と》ったでばな、今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌《や》んたよな気するじゃ」
 すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母はその見えないような眼をあげてちょっと小十郎を見て何か笑うか泣くかするような顔つきをした。小十郎はわらじを結えてうんとこさと立ちあがって出かけた。子供らはかわるがわる厩《うまや》の前から顔を出して「爺《じ》さん、早ぐお出《で》や」と言って笑った。小十郎はまっ青なつるつるした空を見あげてそれから孫たちの方を向いて「行って来るじゃぃ」と言った。
 小十郎はまっ白な堅雪の上を白沢の方へのぼって行った。
 犬はもう息をはあはあし赤い舌を出しながら走ってはとまり走ってはとまりして行った。間もなく小十郎の影は丘の向うへ沈んで見えなくなってしまい子供らは稗《ひえ》の藁《わら》でふじつきをして遊んだ。

 小十郎は白沢の岸を溯《のぼ》って行った。水はまっ青に淵《ふち》になったり硝子《ガラス》板をしいたように凍ったりつららが何本も何本もじゅずのようになってかかったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたようにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺《かば》の幹の影といっしょに雪にかっきり藍《あい》いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。
 白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが棲《す》んでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ。
 小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝があった。小十郎はその滝のすぐ下から長根の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃えているくらい。小十郎は眼がすっかり紫の眼鏡《めがね》をかけたような気がして登って行った。犬はやっぱりそんな崖《がけ》でも負けないというようにたびたび滑りそうになりながら雪にかじりついて登ったのだ。や
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