。それでも気分はよかった。
片っ方のスリッパが裏返しになってゐた。その女が手を延ばして直す風をした。おれはこんな赤いすれっからしが本統にそれを直すかどうかと考へながら黙ってそれを見てゐた。
 女は本統にスリッパを直した。おれは外へ出た。
 川が烈しく鳴ってゐる。一月十五日の村の踊りの太鼓が向岸から強くひゞいて来る。強い透明な太鼓の音だ。
 川はあんまり冷たく物凄かった。おれは少し上流にのぼって行った。そこの所で川はまるで白と水色とぼろぼろになって崩れ落ちてゐた。そして殊更空の光が白く冷たかった。
(おれは全体川をきらひだ。)おれはかなり高い声で云った。
 ひどい洪水の後らしかった。もう水は澄んでゐた。それでも非常な水勢なのだ。波と波とが激しく拍って青くぎらぎらした。
 支流が北から落ちてゐた。おれはだまってその岸について溯った。
 空がツンツンと光ってゐる。水はごうごうと鳴ってゐた。おれはかなしかった。それから口笛を吹いた。口笛は向ふの方に行ってだんだん広く大きくなってしまひには手もつけられないやうにひろがった。
 そして向ふに大きな島が見えた。それはいつかの洪水でできてからもう余程の年を経たらしく高さも百尺はあった。栗や雑木が一杯にしげってゐた。
 おれはそっちへ行かうと思った。
 そしていつかもう島の上に立ってゐた。どうして川を渡ったらう、私は考へながらさびしくふり返った。
 たしかにそれは水が切れて小さなぴちゃぴちゃの瀬になってゐたのだ。
 おれは青白く光る空を見た。洪水がいつまた黒い壁のやうになって襲って来るかわからないと考へた。小さな子供のいきなりながされる模様を想像した。それから西の山脈を見た。それは碧くなめらかに光ってゐた。あんな明るいところで今雨の降ってゐるわけはない、おれは考へた。
 そらにひろがる高い雑木の梢を見た、あすこまで昇ればまづ大低の洪水なら大丈夫だ、そのうちにきっと弟が助けに来る、けれどもどうして助けるのかなとおれは考へた。
 いつか島が又もとの岸とくっついてゐた。その手前はうららかな孔雀石の馬蹄形の淵になってゐた。おれは立ちどまった。そして又口笛を吹いた。そして雑木の幹に白いきのこを見た。まっしろなさるのこしかけを見た。
 それから志木、大高と彫られた白い二列の文字を見た。
 瘠せてオーバアコートを着てわらじを穿いた男が青光りのさると
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