》つて生命が危ないのです。それに鱶の泳ぐのはとても速いのですから、すぐ追つかれてしまひます。
それでは上の船へ合図をして、引上げて貰《もら》はうとすれば鱶は、待つてゐましたとばかり、くるりと仰向《あふむ》けに引つくり返り、下の方から足をがつぷりと喰《く》ひ切つてしまふかも知れません。もう絶体絶命です。仕方なしに、かなはないまでもと、今太郎君は又もや護身用の大ナイフを握りしめて、そこにじつと立つてゐました。
でも、鱶の方でも、妙な、丸つこい、てか/\光る禿頭《はげあたま》に、大きな三つ目をもつた怪物が立つてゐるものですから、さう、たやすくは飛ついて来ません。相変らず、小さな凄い目で、こちらを睨んでゐるつきりです。けれども、よく/\見てゐると、その大きな鰭《ひれ》がほんの僅《わづ》かづつ動いて、猛悪な魚の形はだん/\明瞭になつて来ます。確《たしか》にじり/\近寄つて来るのです。
そのうち今太郎君は、むき出しになつてゐる両方の手が、鱶の食慾《しよくよく》をそゝり立てはしまいかと気遣つたので、そつと後《うしろ》の方へ廻《まは》しました。
鱶はいよ/\近寄つて来ました。余り恐しいので、今太郎君は目をつぶらうとしましたが、どうしてもつぶれません。鱶との距離、あと三メートル、あと、二メートル、あと一メートル! 今太郎君の生命《いのち》は風前の燈火《ともしび》です!
と、その頭の中に、海底で鱶に襲はれたときには、すばやく仰向けに泥《どろ》の中に仆《たふ》れ、手足をばた/\させて、そこらを濁してしまへば遁《のが》れることが出来るといふ話を思ひ出しました。
「さうだ。さうしよう!」
が、ちと遅かつた。今まで、ほんのそろ/\近寄つて来た鱶はこの時、急に勢ひづいて、突進して来ました。そしてその恐しい鼻尖《はなさき》を、ごつん[#「ごつん」に傍点]と潜水兜前面の硝子《がらす》にぶつつけましたから、今太郎君はわツ[#「わツ」に傍点]と叫んで、どつかり尻餅《しりもち》をつき、めくら滅法に大ナイフを振廻しました。
もツくり! もツくり!
俄に泥の雲があたりを立てこめて、何もかも見えなくなりました。ちやうど今太郎君がしようとしたことを、鱶が手伝つたやうなものでした。何が幸になるか分りません。
恐しさに胆《きも》をうばはれた今太郎君は、無我夢中でじたばたするうち、ふと何やら固いものに手がさはりました。すると不思議です。海の底が、ゆらゆらと地震のやうに揺出《ゆれだ》したので、ます/\驚いて、急いでその固いものを一方の手でつかみ、もう一方の手で、烈《はげ》しく生命綱を引きましたから、船の方では、ぐん/\引上げにかゝりました。
ところが又、更に不思議なことには、海の底がつかんでゐる岩ぐるみ、今太郎君を載せるやうにしてずん/\上がつて行くのでした。だから今太郎君はいよ/\胆をつぶして、思はず、
「助けてくれ! 助けてくれ!」
と、叫びますと、耳ががん/\鳴つて、目がくら/\して、気が遠くなつてしまひました。
五
「今太郎《いまたらう》、おい今太郎、しつかりしなさい。お父さんだよ、分るか」
やがて、こんな声が聞えました。今太郎君ははツと気がついてみると、いつか知ら、自分はもう海の中にはゐないで、病院の寝台の上にねてゐました。
今太郎君はそれから鱶《ふか》に出あつた話をくはしく物語りました。
「ほゝう、それで分つた。おまへが引上げられた時、すばらしい大海亀をつかんで浮いて来たんだよ。みんな大騒ぎをして捕へようとしたが、水面まで来た時おまへの手が離れたので、そのまゝ沈んでしまつた。考へてみると、あの海亀のおかげで、おまへは鱶の顎《あご》をのがれることが出来たのだ」
と、お父さんがいひました。
今太郎君が鱶に突かれて尻餅《しりもち》をついたのは、ちやうどそこにゐた海亀の背の上だつたのです。だから、海の底が動くと思つたわけです。そして、今太郎君は気絶した後も、亀の甲羅《かうら》をしつかりつかんで放さなかつたので、とうとう水面まで一緒に浮上つて来たのでした。
これだけの話をお父さんに聞かされたとき、今太郎君は不思議さうにきゝました。
「ぢや、去年|僕《ぼく》が助けてやつた亀が、今度は僕を助けてくれたんでせうか」
「さアどうだらうかね」と、お父さんは笑つて言ひました。「去年の亀はチヤブ台ほどの大きさで、今年のは貨物自動車ほどもあつたからね」
「去年のが、そんなに大きくなつたのではないでせうか」
「いや、海亀は僅《わづ》か一年ばかりのうちにそんなに大きくなるものぢやないよ」
「それぢや、きつと去年の亀の親でせう」
「ハハハ、成程、子が受けた恩を、親がかはつて返したつてわけか。或《あるひ》はさうかも知れないね。実際、あの亀がお前を背に乗せて、水面まで上がつたからこそ、下から鱶に襲はれないですんだのだ。いつてみりやあの亀は身を以《もつ》て、鱶からお前を護《まも》つてくれたんだ。お前の生命《いのち》を救つてくれたのさね。去年の亀の親かも知れない。或は親の又親ぐらゐかも知れんよ。何しろ大きな亀だつたからね。百年以上の歳《とし》をとつてゐたらう。親にしろ親の親にしろ、お前が善いことをした酬《むく》ひは、ひとりでに来たわけだ。亀も始終海の底を歩いてゐるから、いつてみりや、あれも一種の潜水夫で、我々のお仲間さ。別に害をしないものだから、こつちからもひどいことをしないがいゝ。そしたら先方でも、今度のやうな善い事をしてもくれようからな」
× ×
今太郎君はその後お父さん以上の名潜水夫となつて、南洋の海底に活躍してゐます。
底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「新しい童話 五年生」金の星社
1935(昭和10)年8月
初出:「少年倶楽部」講談社
1932(昭和7)年7月
入力:tatsuki
校正:鈴木厚司
2006年3月21日作成
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