り、戦争は遠くして見えねど、事によせたる物見遊山も、また年中暇なき山賤《やまがつ》の慰藉《いしゃ》なるべし、そのうちに阿園は一人残されて心細くもその日を送れり、二人が門を出でし日より、今は三月に及べどもいずれよりも便りなければ、旦暮その無事を祈るのみ、さりながらひたすら戦場の消息に耳を傾けたればにや、彼は村人がかつて聞かざる珍事を聞き得て、近処の老母らが音ずるごとに、新たなる物語もて彼らを驚かせしなり、
げにや阿園は熊本城の一たび危かりしこと、熊本城の大将は谷少将と言える清正公以後の豪傑なること、賊軍の巨魁《きょかい》西郷隆盛は以前は陸軍大将にて天朝の御覚えめでたかりしものなること等より、田代《たしろ》よりゆきし台兵が、籠城《ろうじょう》中に戦死せしこと、三奈木《みなぎ》より募られたる百人夫長が、陣中の流行病にて没《な》くなりしこと、甘木《あまぎ》の商人が暗号を誤りて剣銃にて突かれしことなど、おおよそ近郷四五里の間の遠征戸籍は一々に暗記したり、最後に館原の藤吉が、輜重《しちょう》を運べる間流れ丸に中《あ》たりて即死したる報道を得しより、いと痛う力を落しぬ、これよりは隠気に鎖《と》じ籠《こも》り終日戸の外にも出でず、屋の煙さえいと絶え絶えにて、時々寒食断食することさえあり、さながら喪を守るもののごとく半月余もかくして過しぬ、
ある日阿園はあまりの暑さに窓をあけて外面を眺めぬ、日はあたかも家の真上にありて畑の人は皆|昼餉《ひるげ》に急げり、と見れば向うの路より一個の旅人、大いなる布の包みを負いて此方に歩めり、ようやくに近くなれり、絶えず打ち守る此方の顔を旅人も目標として来るさまなりき、阿園は飛び立ちて独語せり、「佐太郎主にてはあらぬか、佐太郎主によくも似てあり、……否佐太郎主ならば、宿の主も一しょに帰らるべきものを、……さりながら余の人とは……いかにも佐太郎主のような……」
げに旅人は佐太郎なり、彼は今ただ一人帰れるなり、彼はさきに身を立つべき資を得んと百日余り命を賭《か》け牛馬のごとく追い使われしが、今は危難と苦役の地獄を出て、懐《なつ》かしき家路に上り、はるばるも故郷の橋を渡れるなり、彼が喜悦に溢《あふ》るる心緒は、熊本籠城の兵卒が、九死一生の重囲を出でて初めて青天白日を見たるその嬉《うれ》しさにも優《まさ》るべく、いと重げなる黄金の包みのその懐《ふところ》に満々たるは、征西将軍が拝受したる菊桐《きくきり》の大勲章よりもその身にとってありがたかるべし、今や故郷に錦《にしき》を装《かざ》り、早や閭樹《りょじゅ》顕われ村見え、己が快楽の場なりし勇蔵が家またすでに十歩の近きにありて、その窓より歓迎する顔さえ見ゆるは、凱歌《がいか》を唱えて凱旋する幾万の兵士の喜びを合わするとも、なお及ぶべくもあらざるべきに、見よこの満足の日に彼の顔の曇れるを、彼が足の躊躇《ちゅうちょ》せるを、彼は窓に近づきぬ、窓の顔は一たび消えて戸をあけて転《まろ》び出でたり、「佐太郎主今がお帰り、して宿の主は」と、
佐太郎はうちに入り布の包みを卸してまず一杯の水を乞《こ》えり、女房は井より新たに汲《く》み来たり柄杓《ひしゃく》のままにさし出し、「宿の主も一しょにか」と問う、佐太郎は水に気の入り、阿園が問いに何心なくさようと答えつ、後にてハッと愕《おどろ》きたれど駟《し》も舌に及ばざりき、女房は焦《せ》き立てり、「していずこにか立ち寄られてか」「さよう」「いずこに」「否今すぐに帰り来べし、ゆっくりと待たれよ」「さても情なき人の心、いつまで妾に待てよとか、妾は一走り呼びに往かん」と、阿園はあわただしく駈け出でたり、佐太郎は色をかえ、「姐子《あねご》よ呼びに往かれずとも、兄貴は疾《と》くに帰りてある……、ああ、隠すとも隠されぬか」と嘆息しつつ、阿園を見れば、彼はただキョロキョロして家の裏を駈け回り、己が影を逐《お》いてまた立ち回り、「主はいずこに帰ってある」と、憐《あわ》れのものよ彼はまだ夫の不幸に気づかであるなり、
「オオ兄貴はココに」と、佐太郎は布の包み解きもあえず推しやりぬ、女房は解いて見て夢になり、物言わぬ夫の遺筐《いきょう》を、余人の衣類のごとくしばらく折目をさすりておりしが、やがて正気に復《かえ》りし時は、早や包みを懐《いだ》きしめて悶絶《もんぜつ》したり、げに勇蔵は田原坂《たばるざか》の戦官軍大敗の日に、館原の藤吉とともに敵の流れ丸に中《あた》り、重傷を負いて病院に運ばれ、佐太郎を死の枕《まくら》に呼び阿園が再縁のことをくれぐれも頼みて死しぬ、されば佐太郎は気絶したる阿園を呼び回《かえ》して、勇蔵が遺言と死にざまとを語り、彼が命の価なる三十金を渡し、阿園が尼になるべき余儀なき願いに対しては、十分力を添うべきことを約して、哀れの寡婦を涙の海に残して帰りぬ、
翌朝阿園が里方の父来たり、村人も皆訪い来たれり、父は佐太郎が持ち帰りし三十両を改めて己が手に納め、勇蔵は上より戦場に埋められたれば再び葬式を営むの要なきことを主張し、直ちに阿園を引き取らんと言う、村人も大概その儀を賛しぬ、佐太郎のみさきに寡婦に誓いしごとく、情なき里方の処置に対して寡婦の力となり、一身を投げて彼方此方に奔走し、ようやくにその議を翻し、寺院にも葬儀を頼み、大工にも棺槨《かんかく》を誂《あつら》え、みずから犂《すき》をとりて墓を掘り、父老、女房、勇蔵夫婦の朋友を呼びて野辺送りに立たしめたり、阿園が尼になるの一事は、里方は痛く怒りたれど、これも彼が周旋にて、忌中五十日の間ともかくもこの家にて喪を守ることを許されぬ、
阿園が尼の願いいと切なりければ、佐太郎はなお陳述するところありしかど、里方は少しも動く様子なく、ただとにかくに此方より返事するまで待ちおるべしとのことなりければ、今は推して乞わんようもなかりき、
この五十日間は阿園が心の還俗《げんぞく》するか、里方が尼の願いを許すか、両者その一に定まるべき期限なりし、その後里方は娘が心を回《めぐ》らさんともせず、また慰むべき人をもやらず、村人も訪い来ざれば、阿園はただ一人貧しく寂しく時々は涙にくれつつ、留守の日よりもひとしおあわれに日を送りただただ訪い来る佐太郎を待つのみなりき、げにこの家に快楽を享《う》けたりし佐太郎は、今はこの家に慰藉を報うべかりし、ある日彼は尼になるべき順序を問うべく五里はるかなる善導寺の尼院を訪いしが、落胆して帰り来たり、尼になるには父兄|親戚《しんせき》の保証を要することを阿園に告げ、次の日世に知られぬ尼院ありと伝うる彦山《ひこさん》に登り、二日の後に帰り来たり、夫ありて夫に死なれ、子ありて子に後《おく》れ、世間より捨てられたる者ならでは尼となられぬこと、されど道なき絶処虎狼の住むところには、昔信心堅固の尼の住みたる洞穴あり、このごろもまた一人の尼住みおり、ここは人間の至るところならねば、世の法律を逃るるとも後《あと》追わるべき憂いなき由を語り聞かせぬ、阿園はいかなる絶処を越えても尼になるべく思いたり、されどその洞穴の辺まで佐太郎に送られたしとも思いしなり、
かくて一七日となり法事を営まねばならざりき、さらでも野菜なき夏の半ば、夫の留守中何事も懈《おこた》りがちなりければ、裏の圃《はたけ》に大葱《おおねぎ》の三四茎日に蒸されて萎《な》えたるほか、饗応《きょうおう》すべきものとては二葉ばかりの菜蔬《さいそ》もなかりき、法事をせずば仏にも近所にも済まず、営まんには物なければ、彼はいと痛う哀れになり、もはや世に棄てられたるように感ぜり、折々窓より外面を眺めても、村人はただ己《おの》がじしその野に労するのみにて、人には一|把《わ》の菜の慈悲もなかりき、今はジリジリ移りゆく日影を見るに堪えかね、仏壇の前に伏して泣きたり、哀れの寡婦よ、いかばかり悲しかりけん、さりながら慈悲深き弥陀尊《みだそん》はそのままには置き給わず、日影の東に回るや否、情ある佐太郎を遣《つか》わし給えり、彼は瓜《うり》、茄子《なす》、南瓜《かぼちゃ》、大角豆《ささげ》、満ちたる大いなる籃《かご》と五升入りの徳利とを両手に提《さ》げて訪い来たれり、「姐子《あねご》今日は兄貴が一七日、大方法事を営まるることと、今朝寺に案内し、帰るさに三奈木の青物店に立ち寄り、初物品々買うて来ぬ、兄貴は大角豆が好きなりしゆえ、余分に求めしわが寸志、仏前に捧《ささ》げられたし、もしこの籠《かご》一個にて今日の法事の済みもせば、われにもこの上なき本望なり」と、絶望の余にかかる恵みの音ずれあり、ことさら夫が好きの物と聞くからに、感謝の語のすべることも無理にはあらず、「夫に勝る卿《おんみ》の親実、しみじみ嬉しく忘れはせじ」と、
分に過ぎたる阿園が感謝に、佐太郎は気を取り外《はず》せり、彼は満面に笑みの波立て直ちに出で行き、近処に法事の案内をし、帰るさには膳椀《ぜんわん》を借り燗瓶《かんびん》杯洗を調《ととの》え、蓮根《れんこん》を掘り、薯蕷《やまのいも》を掘り、帰り来たって阿園の飯を炊く間に、吸物、平、膾《なます》、煮染《にし》め、天麩羅《てんぷら》等、精進下物の品々を料理し、身一個をふり廻して僕となり婢となり客ともなり主人ともなって働きたり、日暮るれば僧も来たり、父老、女房朋友らの員《かず》も満ち、看経《かんきん》も済み饗応もまた了《おわ》り、客は皆手の行き届きたることを賞《ほ》めて帰れば、涙をもって初めし法事も、佐太郎の尽力をもて満足に済みたり、
阿園は法事済ましてより、日常のこととてはただ午前には墓より寺に詣《まい》り、午後よりは訪いくる佐太郎に慰められ、夜は疾《と》く寝るばかりなりき、佐太郎もまたこの家に以前よりは繁く通いぬ、されど村人は皆彼が謹直なるを思い、この家との旧《ふる》き好《よし》みを思い、勇蔵とともに戦地に赴《おもむ》きしことを思い、勇蔵が亡き後事大小となく皆彼が義務なるを思いつ、ただに彼を怪しまざるのみならず、彼が経験なき壮年の身にしては、頼みなき身を慰むることの行き届けるに、感心したり、阿園はまた二三日ごとに墓の掃除せられ、毎朝己れに先だって線香立ち、花|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》され、花筒の水も新《あら》たまり、寺の御堂にも香の煙|薫《くゆ》らし賽銭《さいせん》さえあがれるを見、また佐太郎が訪い来るごとに、仏前に供えてとて桔梗《ききょう》、蓮華《れんげ》、女郎花《おみなえし》など交る交る贈るを見、わけても徒然《つれづれ》ごとに亡夫の昔語を語るを聞きてこの上のうも満足に思いぬ、「この人までもかくまで亡夫に懐《なつ》きてあるか」と、
そもそも勇蔵は幼なかりしころより、佐太郎とはわけて親しき寺子友達にて、常に佐太郎が家に机を列べたりしゆえ、彼が手習い道具はそのまま佐太郎が家にありき、これまではただその家の邪魔物なりしが、今は彼が縁者のためには、千金の珍宝にも易《か》えがたき遺物となれり、ある日佐太郎は半日家内を捜索して、ことごとく勇蔵が所有に属せし小道具を取り揃《そろ》えて寡婦のもとに背負いゆき、「今日はよきものを持ち来ぬ」とて寡婦の前に卸したり、その黒染めの古板と欠けたる両脚は、牧家数代の古机にして、角潰れ海に蜘蛛《くも》の網かけたる荒砥《あらと》の硯《すずり》は、彼が十歳のとき甘木の祇園《ぎおん》の縁日に買い来しものなり、雨に湿《し》みて色変りところどころ虫|蝕《く》いたる中折半紙に、御家流《おいえりゅう》文字を書きたるは、寅《とら》の年の吉書の手本、台所の曲《ゆが》める窓より剥《は》ぎ来たれる、三行書《みくだりが》きの中奉書は卯《う》の年の七夕《たなばた》、粘墨《ねばずみ》に固まりて反《そ》れたる黒毛に殕《かび》つきたるは吉書七夕の清書の棒筆、矢筈《やはず》に磨滅《まめつ》されたる墨片は、師匠の褒美《ほうび》の清輝閣なり、彼は曰《い》えり、「兄貴がこの墨を頂戴せしそのありがたがりし笑顔、今もなお目にあり、古参の子供らが捻紙《こより》つなぎの文銭もてぜひに買わんと強《し》い、あるい
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