山の手の子
水上滝太郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)悲哀《かなしみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)力|充分《いっぱい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+扇」、18−上−14]《あお》ぎながら
−−
お屋敷の子と生まれた悲哀《かなしみ》を、しみじみと知り初《そ》めたのはいつからであったろう。
一日《ひとひ》一日と限りなき喜悦《よろこび》に満ちた世界に近づいて行くのだと、未来を待った少年の若々しい心も、時の進行《すすみ》につれていつかしら、何気なく過ぎて来た帰らぬ昨日《きのう》に、身も魂も投げ出して追憶の甘き愁《うれ》いに耽《ふけ》りたいというはかない慰藉《なぐさめ》を弄《もてあそ》ぶようになってから、私は私にいつもこう尋ねるのであった。
山の手の高台もやがて尽きようというだらだら坂をちょうど登りきった角屋敷の黒門の中に生まれた私は、幼《いとけな》き日の自分をその黒門と切り離して想《おも》い起すことは出来ない。私の家を終りとして丘の上は屋敷門の薄暗い底には何物か潜んでいるように、牢獄《ひとや》のような大きな構造《かまえ》の家が厳《いか》めしい塀《へい》を連ねて、どこの家でも広く取り囲んだ庭には欝蒼《うっそう》と茂った樹木の間に春は梅、桜、桃、李《すもも》が咲き揃《そろ》って、風の吹く日にはどこの家の梢《こずえ》から散るのか見も知らぬいろいろの花が庭に散り敷いた。そればかりではない、もう二十年も前にその丘を去った私の幼い心にも深く沁《し》み込んで忘れられないのは、寂然《ひっそり》した屋敷屋敷から、花のころ月の宵《よい》などには申し合わせたように単調な懶《ものう》い、古びた琴の音が洩《も》れ聞えて淋《さび》しい涙を誘うのであった。私はこうした丘の上に生まれた。静寂《しずか》な重苦しい陰欝なこの丘の端《はず》れから狭いだらだら坂を下ると、カラリと四囲《あたり》の空気は変ってせせこましい、軒の低い家ばかりの場末の町が帯のように繁華な下町の真中へと続いていた。
今も静かに眼を閉じて昔を描けば、坂の両側の小さな、つつましやかな商家がとびとびながらも瞭然《はっきり》と浮んで来る。赤々と禿《は》げた、肥《ふと》った翁《おやじ》が丸い鉄火鉢《てつひばち》を膝子《ひざっこ》のように抱いて、睡《ねむ》たそうに店番をしていた唐物屋《からものや》は、長崎屋と言った。そのころの人々にはまだ見馴《みな》れなかった西洋の帽子や、肩掛けや、リボンや、いろいろの派手な色彩を掛け連ねた店は子供の眼にはむしろ不可思議に映った。その店で私は、動物、植物あるいはまた滑稽《おどけ》人形の絵を切って湯に浮かせ、つぶつぶ[#「つぶつぶ」に傍点]と紙面に汗をかくのを待って白紙《しらかみ》に押し付けると、その獣や花や人の絵が奇麗に映る西洋押絵というものを買いに行った。
「坊ちゃん。今度はメリケンから上等舶来の押絵が参りましたよ」
と禿頭は玻璃棚《ガラスだな》からクルクル[#「クルクル」に傍点]と巻いたのを出しては店先に拡《ひろ》げた。子供には想像もつかない遠い遠いメリケンから海を渡って来た奇妙な慰藉品《なぐさめ》を私はどんなに憧憬《あこがれ》をもって見たろう。油絵で見るような天使が大きな白鳥と遊んでいるありとあらゆる美しい花鳥《はなとり》を集めた異国を想像してどんなに懐《なつ》かしみ焦がれたろう。実際あり来たりの独楽《こま》、凧《たこ》、太鼓、そんな物に飽きたお屋敷の子は珍物《めずらしもの》好きの心から烈《はげ》しい異国趣味に陥って何でも上等舶来と言われなければ喜ばなかった。長崎屋の筋向うの玩具《おもちゃ》屋の、私はいい花客《おとくい》だった。洋刀《サアベル》、喇叭《らっぱ》、鉄砲を肩に、腰にした坊ちゃんの勇ましい姿を坂下の子らはどんなに羨《うらや》ましく妬《ねた》ましく見送ったろう。いつだったか父母《ちちはは》が旅中お祖母《ばあ》様とお留守居の御褒美《ごほうび》に西洋木馬を買っていただいたのもその家であった。白斑《ぶち》の大きな木馬の鞍《くら》の上に小さい主人が、両足を蹈《ふ》ん張って跨《また》がると、白い房々した鬣《たてがみ》を動かして馬は前後に揺れるのだった。
「マア、玩具にまで何両という品が出来るのですかねえ、今時の子供は幸福《しあわせ》ですねえ」
とお祖母様はニコニコ[#「ニコニコ」に傍点]して見ていらっしゃった。玩具屋の側《かわ》を次第に下って行くと坂の下には絵双紙屋があった。この店には千代紙を買いに行く、私の姉のお河童《かっぱ》さんの姿もしばしば見えた。芳年《よしとし》の三十
次へ
全10ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング