日になつてもやまず、どうやらそれは暴模樣のやうにもなつた。――再び晴れた青空をみることが出來たとき、その青空のいろがもう水のやうに澄み盡してゐた。さうして、身にしみて冷めたい風がふいた。
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といふ秋の初めから、年の暮迄の時雨の多い頃である。
「さざめ雪」は、
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暗い、時雨のやうな雨が來て、漸次秋の深くなつて來る夜ごろ
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である。
「三の切」は、
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暗い便りない時雨の日がつづいて、今年もそこに十一月が來た、酉の市が來た。
初冬の宵の寂しさに、臺所の障子のかげに、細々と※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《いとゞ》のなく頃である。
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「冬至」にはその題の示す通り、
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冬至だつた。――雪にでもなるらしく、暗く、凍てついた空に、ときどき、一文獅子の太鼓の音ばかりが心細く響いた。
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「老犬」にはその初めに、
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十一月の末から十二月にかけて
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とあつて何れも冬だ。さうして此の冬空の灰色が、世の中の推移に殘されてゆく人々の身の上をつつんで、一層靜寂を増してゐるのである。
其處に久保田君獨特の藝術境があると共に、此の傾向は屡々作品を平面的なものにしてしまふ憾《うらみ》がある。然るに「末枯」の一篇は、此の缺點を脱却して、描寫もすべて立體的に、現實性を確然と把持して、渾然とした傑作を成した。ほんとのところ、自分は近頃「末枯」程の作品を見た事がなかつた。
「世の中が惡くなつた」とかこちながら、浮世の一隅に、氣の利いた口はききながら、心寂しがつてゐる人々の世の中が「戀の日」一卷の中に沁々《しみ/″\》と味はれる。
甚だ散漫な自分の感想は、何時《いつ》迄たつても盡きさうも無い。「末枯」のうまみを細かく味はつてゐるときりが無い。ここいらでひとつ此頃流行の一手を學んで、大ざつぱにかたづけてしまへば、「末枯」の作者久保田万太郎君は、現代稀に見る完成した藝術家で、此の完成したといふ點に於て僅かに肩を並べ得る人は、徳田秋聲、正宗白鳥二氏の外には無い。仲間ぼめで危く文壇に地歩を占めて居る人間の多い現在、自分などが聲を張上げるのは誤解を招くおそれがあるが、藝術の作品の僞物とほん物の區別のわかる人々は、此の陣笠の聲の中にも眞實のある事を認めるであらう。
「戀の日」を再讀三讀して卷を閉ぢた時、自分は不思議な氣持がした。その昔頼母しがられた頃はいざしらず、此の頃の、出たらめの、安受合の、ちやらつぽこだと思つてゐた久保田君が、尚斯くの如き靜寂至純なる藝術境を把持して、完全無缺な作品を發表し得る事の不可思議に驚いたのだ。人間が偉くなければ、立派な作品は出來ないと思つてゐる自分の信仰がぐらついた。矢張り久保田君は偉い人だつたのかと思ひ出した。幾度も幾度も、此の問題を頭腦《あたま》の中で繰返して居る間に、平生藝術家久保田君を見くびり勝な、其處いらに居る人間どものぼんくらと無禮が癪に障つて來た。自分自身の目はしの利かなかつた事も亦腹立たしくなつて來た。正直のところ、自分は久保田君の藝術の力に、完全に頭を垂れて膝まづいたのである。
最近、陸軍簡閲點呼に召集されて上京した時、忙しい中で、新婚の久保田君夫妻に逢つた。もの優しい新夫人を傍にして坐つた久保田君は、見違へるばかり身體《からだ》はひきしまり、一頃の浮調子とはうつて變つて落ちついてゐた。堂々とした花婿だつた。さうして斯ういふ場合には、兎角世間の惡賢い人間がして見せる氣障と厭味を離れて、眞面目に結婚生活の幸福を説いて止まなかつた。女性を輕侮し、結婚生活を羨しいと思つてゐない自分さへ、久保田君の純眞なる喜悦の前には、おひやらかすことさへ出來なかつた。これ程喜べるものならば自分も結婚し度いと思つたが、自分の如き疑深い卑屈な根性の者には、到底それは不可能の事であらう。結局自分は、久保田君の結婚そのものよりも、久保田君が眞心から幸福を感じてゐる心持の方を羨んだ。
或は遂に久保田君は「生活の改造」を爲《し》遂げたのかもしれない。さうしてほんたうに久保田君の偉さが、一時の浮薄に打勝つて光を現して來たのかもしれない。「世の中がよくなつて來た」のかもしれない。さういふ奇蹟の起る事を、自分は「末枯」の作者の爲めに祈つて止まないものである。(大正八年八月十八日)
[#地から1字上げ]――「三田文學」大正八年九月號
底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店
1940(昭和15)年12月15日発行
入力:柳田節
校正:富田倫生
2005年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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