貝殼追放
「末枯」の作者
水上瀧太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)知己《ちかづき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)それ程|變《へん》てこ

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)馳※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて居る

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)生々《なま/\》しく
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 久保田万太郎君と自分とのおつきあひも既に十年になつた。久保田君が「朝顏」を書き、自分が「山の手の子」を書いた頃から知己《ちかづき》になつたのだ。
 あれは「三田文學」創刊の年の秋だつたと思ふ。その頃三田の山の上にかたまつて居た連中が、同人雜誌を出す計畫をした。誰一人作品を發表した事の無い處女性から、「三田文學」といふやうな立派な雜誌を舞臺にする事は思ひもよらなかつたので、先づ手習に同人雜誌を出さうといふのが主意だつた。自分も好奇心に驅られて相談會に出席した。場所は田町の鹽湯の二階だつたと記憶して居るが、どんな家だつたか、はつきり目に浮べる事は出來なくなつた。十數人集つた仲間の半分以上は、自分の知らない顏だつた。てんでんにいろんな希望を述べあつたが、結局は資金の問題だつた。會費制度だと聞いて居た「白樺」の噂が頻に出たやうに覺えて居る。月々一人がいくらいくらの會費を出せば維持して行かれる、いやそれでは足りない、そんなには出せない、といふやうな事を長い間言ひ合つた。雜誌さへ出せば、直ぐにも文壇の一角に勢力を張れるやうな口をきく者も、計算の事に及ぶと口をつぐまなければならなかつた。みんなが書生つぽだつたのだ。
 その中でたつた一人、際立つて世馴れた口をきく人が居た。それ迄に、一度も顏を見た事の無い人だつた。金釦の制服を着て、人々の後の方にひかへめにして居るのが、まるで新入生のやうだつた。その人は一册の雜誌を出すには、どの位費用がかかるとか、どの位の部數で、どの位賣れ殘るものだとか、會費制度ならば、どの位なければ足りないとかいふやうな事を、事細かに述べた。大ざつぱな書生ばかりの中に、たつた一人のその人は、怖ろしく頼母しい人に見えた。唯單に雜誌出版の話をした丈だつたけれど、聞いて居る自分は、此の人は世の中の事はなんでも知り盡して居る人だといふやうな氣がして、感服してしまつた。それが久保田君だつた。
「あれは誰だい。」
「久保田つてね、豫科の生徒で、俳句かなんかやる男だとさ。」
 といふやうな問答を、隣席の友だちとささやきかはした事を覺えて居る。
 その[#「 その」は底本では「その」]同人雜誌は、矢張り資金の問題で物にならなかつたが、間も無く久保田君は「朝顏」一篇を「三田文學」に掲げて、年少早く既に第一流の作家として恥しくない手腕を見せて世間を驚かした。
 當時の事を考へると、記憶は未だ生々《なま/\》しく、久保田君の金釦の制服姿も、昨日一昨日の事のやうに思はれるが、しかしながら十年の歳月は、流石にさまざまの變遷を物語るものがなければならない。
 自分が、世の中を知り盡した頼母しい人に思つた、温順な豫科の生徒も激變した。少くとも自分の見る久保田君は驚く程變つた。
 中學時代も同じ三田の山の上に居ながら、年齡も學級も自分の方が上だつたので、田町の鹽湯で頼母しかつた久保田君以前は知らなかつたのだから、或は田町の鹽湯で見た時から暫時《しばらく》の間――もう少し押切つていへば、久保田君の第一集、「淺草」の出る頃迄の久保田君は、極めて他所行《よそゆき》の久保田君だつたのかもしれないが、それにしても今日の久保田君には、その他所行の沈着さへ失はれ盡したやうに思はれる。
「君は變つた。ほんとに變つた。」
 といふと、
「さうかしら、自分ではちつとも變らないつもりなんだけれど。」
 と久保田君はその癖で――隨分小汚ない癖だが――長く延ばした髮の毛を撫であげ撫であげ、いぶかしさうに云ひながら、その實變つた事を承認し、且變つた事をほこりとする色さへ浮べるのである。自分はそれを見ると屡々腹が立つて來る。
 第一久保田君には頼母しいところがなくなつた。怖ろしく出たらめで、あてにならない。安受合で、ちやらつぽこだ。世の中を知り盡したやうなおちつきがなくなつて、何もわけのわからない半可通らしく見えて來た。人の後にひかへめ勝だつたのが、出ないでもいい處にまで無闇に乘出して馳※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて居る。焦躁、性急、浮調子になり切つてしまつた。
 その以前同人が寄集ると、
「久保田つて人はおとなしい人だね。あれは叔父さん見たいな氣がするよ。」
「ほんとにああいふのが居てくれると頼母しい。」
 などと云ひあつた事もあつたが、その自分さへ近頃の久保田君の出たらめには幾度となく迷はされて、何が何だかわからなくなつて、癇癪を起した事も數へ切れなくなつた。
 かういふ變化が何に原因するものかを自分は知らない。恐らくは小説家の常として、久保田君は之を戀愛にでも歸するかもしれない。しかしつくづく考へてみると、矢張り本來の性質の一面が、他の一面を壓服して特別の發達を遂げたものと見るのが至當かもしれない。
「文壇電話」といふ綽名《あだな》をつけた人がある。彼方此方《あつちこつち》と喋り歩いて、忽ち噂を廣げるといふ意味なのださうだ。時には本屋の番頭らしい事がある。時には役者の男衆らしい事もある。それ程|變《へん》てこに顏が廣くなつてしまつた。
 いたづらに狼狽《あわたゞ》しく散漫な日常生活は、到底久保田君をして充分に創作の才能を發揮させなくなつた。大正五年の秋、自分が外國から歸つて來た時、久々で逢つた久保田君は、恰も永井荷風先生が編輯主任をおやめになつた後の、つぶれかかつた「三田文學」を、如何《どう》にでもして續けて行かう、それにはお互に毎月必ず寄稿する事にしようではないかと、熱心に話を持掛けて來た。自分も承知した。さうしてそれ以來、隨分苦しい努力をして「三田文學」に寄稿しつづけて來た。しかしながら肝心の久保田君は、殆ど纏まつた物を書いた事が無い。休み勝だ。たまに出たかと思ふと、四五頁位で以下次號である。まとまつた印象をうける事がなくなつてしまつたので、
「久保田君も駄目だねえ。」
 といふ嘆息を友だちの口からも聞く事になつた。
 久保田君自身も、常におちつかない心の状態が、創作の邪魔になつて、あせつてもあせつても、何も出來ない事を嘆いて居たが、さういふ時は、日常友だちを相手に無責任な雜談をする時の癖で、誇大な言葉を用ゐ、「生活の改造」をしなければ駄目だといふやうな事を云つて、心にもなく力んで見せる。けれども、その「生活の改造」とは、要之《えうするに》女房を持つといふ事に過ぎないのである。自分では如何《どう》にもならない、女房に如何にかして貰ふ外には爲方が無いといふやうな、久保田君獨特の他力本願なのである。何事にも人を頼まず、自分一人の持つてる丈の力と努力以外には信じ兼る性質の自分は、此の「生活改造論」を聽かされると、本氣になつて反對したものだ。一人は結婚生活の幸福を夢み、女房が欲しいと云ひ、一人は結婚生活を馬鹿にして、女房なんか欲しくないと、顏を合せる度に話合つたが、その久保田君も愈々良縁を得て、優しい人を迎へられた。「戀の日」は遂に久保田君が獨身生活に別るる時の紀念となつた。
 久保田君といへば、無責任な書肆や雜誌社の出たらめから、情話作家だと考へられ、單純無比な書生批評家の放言の爲めには、遊蕩文學の作者だと思はれてしまつた。現に「戀の日」の卷尾に添へてある舊著「東京夜話」の廣告には、「滅びゆく江戸の名殘を描き、華かなる東京の情調を描ける本書は、幹彦氏の西京藝術と相對して正に文壇の雙璧也」と書いてある。勿論本屋の廣告の事だから、自分の如きものさへ「正にこれ文壇の驚異なり」位の事は書立てられるのであるが、久保田君の作品の何處に「華かなる東京の情調」があるか。無理にも情話作家にして、長田幹彦氏あたりの安直な作品と共に賣れゆきをよくしようとするものに外ならない。さうして批評的能力を缺いて居る大多數の讀書子も亦、わけもなく雷同してしまつた。強ひて拾ひ出せば、「お米と十吉」「わかるる時」その他同傾向の作品が不幸にも存在して居るが、それとても嚴密な意味で情話とはいひにくい。矢張り久保田君一流の、果敢ない心持を主として描いた作品で、少くとも長田幹彦氏や近松秋江氏の、所謂艶麗な作品などと同列に置かる可きものではない。さうして此種の作品は、まとまりのいい、簡素な短篇を得意とする久保田君には似もやらず、冗長散漫で、常に失敗に終つてゐる。到底此の作者の如き執着に淡い人は、戀愛小説の作者にはなり切れないのである。
 結婚の豫告と共に贈られた「戀の日」を手にした時、その「戀の日」といふ表題が、いかにも内容にそぐはないものに思はれた。「末枯《うらがれ》」「さざめ雪」「三の切《きり》」「冬至」「影繪」「夏萩」「潮の音」「老犬」の八篇、何れも無戀愛小説である。何處にも戀の場面は無い。だがしかし、つらつら考へると、或は久保田君にとつては、文字以外の深い意味があるのかもしれない。無理にも氣を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してみれば、これは作者自身の戀の日に出來た創作なので、作品そのものが戀の日なのではないのかもしれない。果してさうとすれば、「戀の日」一卷は愈々久保田君の結婚を紀念するものといふべきである。
 けれども久保田君にとつては――同君自身の幸福なる結婚は別として――世上の戀は遂に果敢ない夢に等しい。あらゆるものが、廣大な力を以て押迫る世の中の自然の推移に押流されて行くのだと、あきらめて居る久保田君の根本思想から見て、戀愛も亦一瞬間の覺め易い夢に過ぎない。それは必ず果敢なくさめて、殘るのは涙ぐましい過去の追慕か、或は寂しいあきらめに入る外はない。久保田君の作品の二三を讀めば、敏感なる讀者は直ぐに氣が付くに違ひ無い。戀の成就といふ事は、詩人久保田万太郎君にとつては、思ひも掛けない事である。戀は破れ、さうしてその夢は白々とさめなければならない。その白々とさめた後の生活に久保田君の詩は完全に育《はぐ》くまれる。
 詩人の常として、久保田君も亦常に夢を追ふ人である。同時に又執着に淡い、物わかりの早い東京の人の弱々しさから、その憧憬も夢想も見る間に果敢なく破れ去つてしまふ事をよく知つてゐる。結局は淡い夢の世界から、寂しいあきらめの世界へおちつく事になるのである。
 もとより久保田君にとつては、現在の世の中は結構なものとは考へられない。そんなら進んで蕪雜亂脈な社會の改造を叫ぶか、退いて一人密かに果敢ながつてゐるかといへば、久保田君は當然第二の道を歩む詩人である。泉鏡花先生のやうに、聲を張上げて威勢よく、現代の野暮と不粹を罵倒したり、永井荷風先生のやうに、徹底的に社會人事の虚僞と僞善を指摘する事は、久保田君には思ひも及ばない。同時に又、泉先生のやうに、過去の讚美に熱狂したり、永井先生のやうに、追憶囘顧の文字に詠嘆を縱《ほしいまゝ》にする程抒情的でも無い。まして況や新しき村に、不便を忍んで移住する程の實行力も芝居氣も無い。夢は夢で、憧憬の實現に努力するのは馬鹿々々しいのである。且つ又久保田君の思想の根柢には、世の中は日に日に惡くなるばかりで、人力を以てしては如何する事も出來ないといふ觀念が根強くわだかまつて居る。世の中の惡くなつた嘆きを身の周圍に持ちながら、決して今日の世の中を呪詛しもしなければ、それに對して反抗もしない。その惡くなつた原因を考へもしなければ、その原因を取除かうともしない。何故惡くなつたのか、何故惡いのかも考へない。あき足りないにはあき足りないが、さりとて、それが熱して不平不滿になるのでもない。ただ一人密かに心底から寂しくなつてしまふのである
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