を通じて――或は久保田君の全作品を通じて描かれて居る人々と、その周圍の光景に外ならない。自分が前に、今日の文明に直接何の交渉も無い人々だと云つたのは、即ち彼等の生涯が枯野だからである。
 此の枯野の生涯を送る人々を描く事に於て、久保田君は文壇に比類の無い作家だ。持つて生れた詩人的氣禀の爲めに、沒分曉《わからずや》の批評家は、徹頭徹尾現實には縁遠い、物語の作者だと思つてゐるが、斯くの如きは誤れる事甚しいもので、たまたま久保田君の選擇する社會の一斷面が、將來に連續する現在でなくて、過去に連續する現在だといふ事實から、甘いお伽噺の作者と間違へられ易いのである。
 實際久保田君自身は寫實主義の作家を以て任じて居る。詩人と呼ばれる事を喜びながら、それには些か不服を唱へるが、寫實主義だといはれると、更に一層喜んで、己れを知る人の爲めに相好を崩すに違ひない。甚だ氣障《きざ》な申分ではあるが、久保田君の寫實主義を認めるのは、東京の人でなければ難かしいと思ふ。其の描く世界が、極めて特異の地方色を帶びて居るからで、少くとも山の手の東京の人と、下町の東京の人の區別を知るばかりでなく、同じ下町の人でも、日本橋の人と淺草の人との間には、動かす可からざる相違のある事を認める能力が無いと、久保田君の寫實を寫實だと見る事は出來ないのである。一昔前、久保田君の第一集が出た時に、之を「淺草」と題したのは籾山庭後氏だつたと記憶する。當時自分などは淺草といふ、餘り上等でない、何方《どつち》かといへば場末の土地の名を、本の表題にするのは面白くないやうな氣がしたが、今になつて考へてみると、籾山氏の烱眼は夙に久保田君の作品の地方色を明確に認めて居られたものと思はれる。
「久保田君の作は、もう十年たつと誰にもわからないものになるかもしれません。」
 と同じ籾山氏が言はれた事がある。自分もこれには即座に贊成した。十年待つには及ばない、今既に久保田君の作品は、多くの人にとつて最も難解な小説なのである。
 久保田君は淺草に生れ、淺草に育つた人である。その描く土地も人も總て淺草を離れない。たまたま――恰も久保田君が汽車に乘つて東京を離れる事の少い程たまには、淺草以外に材料を取る事もあるけれど、矢張り實は淺草になつてしまふ。第一その會話が、どうしても東京の眞中ではない。淺草に限る粗末なところがある。久保田君といへば、無條件で江戸つ子だと思ふ程單純な世間の人に、江戸つ子は江戸つ子に違ひないが、江戸つ子の中の淺草つ子だといふ事を教へ度い。
 淺草の詩人は、淺草を知る事が深ければ深い程、淺草以外の世界を知らない事驚くばかりである。「戀の日」の中の一篇「潮の音」の如き、本來淺草には縁遠い學生々活を描いたもので、これが久保田君程の作家の手になつたものとは受取れない程幼稚だ。新派の役者の演《や》る華族、役人、軍人のやうに氣が利かない。しかも悲慘な事には、新派の役者が、華族、役人、軍人などに充分扮し得たつもりでゐるやうに、久保田君自身は、ちつとも此の半馬《はんま》な事を知らないのである。曾て久保田君が淺草田原町に居た頃、
「何しろ町内で大學に通つてるのは私一人きりなんです。」
 と云つた事があつた。家庭とその周圍の空氣が、學校といふものには全く縁遠い爲め、學校といふものを買ひかぶつてゐるのである。既に大學を卒業し、浪花節|語《かたり》と藝術家とをひつくるめて政策の具に供しようとする大臣と膝組で、演劇の改良をはかる久保田君の如きは、當然大學者だと思はれてゐるに違ひない。かういふ周圍の影響から、久保田君自身さへ、學校を正當に了解してゐないで、一種の理想郷のやうに考へてゐた事は、その隨筆や談話筆記の中に、屡々學校に對する少年時の憧憬が、懷しさうに物語られてゐる事實によつて推測される。「潮の音」の失敗の如きは、此の無理解に基因する事いふ迄も無い。幸にして久保田君は、此の頃世に謂ふ所の知識階級に材料を取つたためしが無い。まことに己を知るもので、萬一敢て此の冒險を行つたら、忽ち新派の役者の寫實になる事は疑も無い。
 そのかはりに、故郷淺草を背景にした場合には、久保田君程適確微妙に地方色を描き出す人は少い。「末枯」も「老犬」も「さざめ雪」も「三の切」も、その他曾て發表した勝れた作品の殆ど全部が淺草である。落語家、宗匠、鳶頭、細工物の職人、小賣商人、その女房、番頭、女中、丁稚、さうして時に旦那と呼ばれるその旦那さへ、何處かに安いところがついて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐるところ、飽迄も淺草である。その人々の心の底迄、久保田君は靜に、しかしおもひやり深く味はひ盡して居る。かういふ條件のすべてを完全に備へ、しかも久保田君一流の寫實主義が、立派に成功したものが「戀の日」の卷頭を飾る「末枯《うらがれ》
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