のを感じた。
雙方とも汗を拭き拭き挨拶を濟ますと、目の前の息子の先生の、意外にも若僧なのに驚いたと同時に安心したらしい母親は、そろそろ用件を語り出した。
元來會社の爲事に熱心だつた父親の子に似ず、息子は商賣が嫌ひで學校時代には學校から歸つて[#「歸つて」は底本では「歸つと」]來ると、只今では會社から歸つて來ると、二階の自室に閉ぢ籠つて机に向つて本を讀むか書き物をしてゐる。
「こんな者に何が書けますものかとは存じますけれど。」
と親らしい前置きをして、一體その息子の書く物によつて判斷すれば、將來文士として名を成す事が出來るか如何か先生の御意見を伺ひ度いといふのである。
「それは勉強次第でせう。」
と先生は暑氣と病氣と、且は又迷惑な自分の地位に惱みながら責任のがれ專一に答へた。
「せめて新聞にでも出るやうな有名な人にでもなります事なら、當人の好きな事でもあり、爲方が無いとあきらめて、學校に通はせてもいいと思ひますが。」
しつかりした口のきき方をする母親は、次第によつては曾て自分も其處で教育を受けた事のある東京に息子と共に家を構へて、その成業を待つてもいいといふのであつた。
先生は事の餘りに大がかりなのに吃驚《びつくり》したと同時に、愈々自分の責任の重い事と迷惑の大きい事を痛感した。
「默つて會社に勤めて居りますれば、末始終《すゑしじゆう》は間違ひ無く相當な地位に上《のぼ》る事も出來ますのですが文學と申せば先づ風流な事でございますから。」
第一學校に通はせるにしても月々多額の出費だし、將來存外成功したにしても、なかなかお金にはなるまいといふのが、親として最も危《あや》ぶむ理由に外ならなかつた。
「お母さんは又金々ばかり云うて、金なんかいくらあつたかてあかん。」
息子は苛々した調子で、默つてゐる先生の態度を頼母しくなく思つたらしく、傍から横槍を入れた。
「けれども文學者だつて喰べなくては生きて行かれませんから、それは御心配になるのがもつともです。」
と先生は母親に向つて調子を合せた。
「ごらんなさい、貴方樣もさうおつしやるではないか。」
母親は勢に乘つて息子の不平を抑へつけてから、或る知人の子は東京帝國大學の哲學科を出て年三十にして未だ親の脛を噛つてゐる事、或る知人の息子は慶應義塾に通つてゐて月々莫大な金を費消してゐる事、それからそれと實例を擧げて、學問
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