先生もその一人に過ぎないのであつた。
「文士なんて下等な人間が多ござんすぜ。」
 と云ふ時は他人を罵倒すると同時に、そんな人間と交際を持つ自分自身をも嘲笑する意氣込みが、不知不識にあらはれてゐるのであつた。
 何れにしても先生は、自分を先生々々と呼ぶ少年の前途を危ぶむとともに、その危なつかしい前途にかゝりあつては堪らないと思ふ念に惱まされる事が多かつた。
 或時少年は、先生が先生と呼ばれないで濟むかはりに、終日貸金の利息を勘定したり、諸拂の傳票に盲目判を押したりする會社員の生活をしてゐる事務室へ電話を掛けて來て、相談事があるから今夜行きますと云つて來た。こいつは困つたと思つてゐると、果して困つた問題を持つて來た。
 彼は度々繰返して愚痴を云つてゐた會社づとめの單調無味に堪へられなくなつて、如何しても學校に入《はい》る決心をしたが、それには何處の學校がいいだらうと云ふのである。
「お母さんも同意したのですか。」
「私がそれ程熱心なら爲方が無いから大阪の家をたたんで、私の卒業する迄東京に住むと云うてなはります。」
 我儘者は凱歌を奏する態度で答へた。
 彼は文學書生の常例にもれず、早稻田大學の文科に入學し度いと希望してゐるのであるが、彼處《あそこ》は風儀が惡いからいけないと身内の者に反對されたさうだ。何故彼が早稻田大學を擇んだかといふと、どんな雜誌を見ても執筆者の大多數はその學校の出身者で、數に於て到底他の學校出身の文士と比較にならない程有力であるから、將來自分が世に出るにも最も有利だらうと考へたのださうである。まことに恐るべきは頭數の勢力である。
「それでは慶應義塾がいいでせう。」
 と先生は曾てその學校で落第した事などを思ひ出しながら云つた。
「あそこは金ばかりつかうてる怠け者の學校だからいかんと云うてます。」
「成程ね。」
 先生は一言も無く參つてしまつて、感服する外に致し方がなかつた。
「それにあの學校からは餘り偉い文學者は出てゐませんだつしやろ。」
 少年の舌は滑《なめらか》に動いた。
「さう云へばさうだね。」
 あまりの事の激しさに、流石に先生も殘念に思つたが、然《さ》りとていくら考へてみても、一流として許せるのは小説家では久保田万太郎氏、美術評論家では澤木梢氏を數へるばかりで、遙に下つたお次には先生自身位なものであるから、聲を高くして反對する勇氣は無かつた
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