る氣力もなくなつてしまふ。本を讀む事も、新聞を讀む事も大儀で、今でもクロロホルムのさめ切らないやうな氣持で仰臥《うつぷ》してゐるばかりで、苛立たしい心持を恥ぢながら、それを免れる事が出來ないのである。
 ところへ兄が見舞に來てくれて、いろんな話の末に、歌舞伎座の「沈鐘」を見に行かうと思ふが身體《からだ》に故障が起らなければ一緒に行かないかと誘つてくれた。自分も「沈鐘」は見度いと思つてゐたので喜んで同意したが、その實、心の中ではこの芝居を兄には見せ度くないと思ふ心持が強かつた。
 自分は世に所謂新しい芝居を好んで見度がる一人であるが、それを嚴格に批判的に見る事はあまりに殘酷な氣がして堪へられない。殊に日本の俳優が泰西の名戲曲を演じる場合の如きは、その原作に對する尊敬と、出演者の努力を買ふ同情と、時には原作の偉大さと所演の貧弱さの餘りに極端な對比が惹起する憐愍から、やうやく一人立ちしてヨチヨチ歩く赤坊を見る親の心持で、いたはりいたはり見てゐる態度を取るのである。恐らくこれは自分一人でなく、世の劇評家諸氏といへども、歌舞伎劇に對するやうに、容赦なくうまいまづいを論《あげつら》ふのでなく、割引
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