[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りながら踊るのを見て、その足のぶざまに太いのを指さして笑つたが、その足のぶざまに太いのは許せるけれども、その踊りの餘り極端なる拙劣さは許されない。少くとも足の形をよくする事は不可能に近いが、舞踏は勉強次第で或點迄の進歩は期し得るのである。
 森の精ワルドシュラアトの無邪氣らしくいい氣なのは左程でもなかつたが、池の精ニツケルマンのお神樂の素盞嗚尊のやうな風をして、その癖妙に村の色男らしい塗りつぶした顏で、ものを言はない時でも年中變てこに口を開いてゐる氣取つた、いゝ氣持さうなのは、見るに堪へなかつた。
 鑄鐘師《いものし》ハインリツヒは新派の色男のせりふ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しで悲劇がり、牧師、教師、散髮屋は曾我迺家の身ぶりでふざけた。
 その「外形」の醜さは明白であるが、此の人々に「沈鐘」が了解されてゐるとは、如何に新劇贔負の自分にも思ひも及ばない事であつた。あらゆる點に於て不勉強である。無責任無反省で、且つ自慢さうに演じてゐるのが氣に喰はなかつた。
「自由劇場」の役者達は、雜誌新聞に衆をたのんで筆陣を張る頭腦《あたま》の惡い派に云はせると、「藝術座」などの役者達に比べて本來理解力の少ないものと看做され勝であつたが、頭腦のいい惡いといふ事は學校に通つた年限の長い短いで決まるわけではない。小學校もろくに出ないやうな「自由劇場」の役者は遙かに勝れたる理解力を示した。加之《おまけに》あの役者達は、手馴れない泰西の戲曲を演じる事に對して異常な覺悟を持つてゐた。少くともその戲曲を尊敬し、且つ忠實に演じようとする努力から固くなり過ぎた程敬虔であつた。
 一《ひと》頃「有樂座」でやつてゐた「土曜劇場」の下手な連中さへ、自分には「藝術座」よりも立派なものだつたやうに考へられる。額に汗を流し流し、聲をふりしぼつてゐた彼《か》の一派は、屡々面白いものを見せてくれた。要之《えうするに》それは「外形」の美醜によつてわかつべき優劣ではなくて、精神的の美醜によつて定まる優劣である。無責任にいい氣な役者は、眞摯な役者にはかなはないのだ。
 自分は役者達の態度に不滿を感じると同時に、その指導者に對しても不滿だつた。
 自分は松井須磨子を所謂新しい女優の中では、他の者に比べて段違ひにうまいと思つてゐて、指導さへよかつたら、もつといい芝居をして
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