。その手の甲から腕の関節にかけて、二寸程の細長い瘢痕《きずあと》のあるのをぢつと見つめた。
「ねえ旦那、これ、忘れやしないでせう。」
「お前が気がくるつたときのことだあね。」
「まさか。」女は寂しげに笑つた。
「ねえ、貴方、堪忍して下さいな。あたし何もこんなことをする積りぢやなかつたんだわ。丁度運わるく火箸があたしの手にさはつたんですもの。ひすてりい[#「ひすてりい」に傍点]になつて、無暗に貴方に食つてかかつて居たときでしたわねえ。けれどもあたし嬉しいわ。」
 女は全く貞淑な、むしろ純潔な、処女が示す哀憐の様子を作つて、
「此|瘢《きず》は貴方の一生の瘢よ。そしてあたしの一生の紀念《かたみ》だわ。此瘢を見るたんびに、貴方はあたしを思出して下さるでせう。あたしが風来者《ふうらいもの》になつちやつて、満洲あたりをうろつくやうになつても、ねえ、さうでせう。」
 男はつくづく女の心持を思ひやつた。女の魂がとろけて自分の頭の中へ流れこんで来るかの様に強い感激が思はれた。この女とは長い月日の間に、いろいろ複雑した感情の争を闘はした。随分数多くこの女の涙も見た。けれども今まのあたりに見るやうな、さはつたら何ものをでも燎爛《やきただら》さずには置くまいとする力の籠つた女の姿は初めてであつたのである。今まで覗いたこともなかつた人の世界の真実が、この淫《みだら》な女の涙の中からありありと男の心の眼に映つて来た。け高いと云はうか、神神しいと云はうか。この女の前には自分はいつも素裸になつて居ると思つて、何の隔心《かくしん》を置かなかつた積りであつたが、それはまだこの女の本統を見きはめた上からのことではなかつた。さうして見ると俺自身もこの女にだけはと思つて、一切の自己をさらけ出して居たと信じて居たことも、まだ本統のものではなかつたものらしい。長い記憶を辿るまでのことは無い、現在此席でも、俺は虚栄をはり痩せ我慢を通して居た。一人ぽつちの幕の中で、俺はこの女を引きいれて、限りない欝憂から逃れたいとあせつて居たときでも俺はある大切なもの、唯一なものを、まだ彼に慝《かく》して居たのではないか。そして彼にのみ彼の真実の一切を要求して居たのではなかつたか。俺は屡この女の放埒を看過《みのが》した。傍観者のやうな態度で、彼の狂態を冷かに眺めて居た。いきり立つやうなことはあつても、彼に向つたときは、多く冷静を
前へ 次へ
全22ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平出 修 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング