しも彼の心を動かさなかつたと云ふのでもなく、男は只無意識であつたのであるが、女にはさうは思へなかつた。
「貴方、きいて居て下さるの。」
「きいてるよ。」
「今夜は無心を云つてるんぢやないことよ、真剣よ。」
「真剣だ。俺も真剣になつてきいてるよ。」
「ぢやなぜ鼻であしらつたりなんぞなさるんです。あたし本統に心配でならないから云ふのよ。」
男は妙に気がめりこんでならなかつた。皮肉らしいことでも云つて空元気《からげんき》をつけてやらうと思つた。
「お前の心配は後藤さんのこつたらう。」
かう云つて彼は口をすうすう云はせた。唇をまげて舌で吸ひこむのが彼のくせであつた。
「なんですつて。」
女は自分の云つてることがちつとも先方《むかう》へ通らないもどかしさと、一年も前の古い後藤の名を云ひだされた邪慳さとで、無暗に心がいきりたつた。
「何を云つていらつしやるの。あたしがどうかしたと云ふんですか、何をしました。この頃になつて私が何をしました。さあ、おつしやい。ぜひおつしやつていただきませう。」
男は今更らしく当惑した。女がひすてりつく[#「ひすてりつく」に傍点]にいきり立つてくると、殆ど押へかかへも出来なくなることは之れまでも度度見て居たことであるから、激しい発作《ほつさ》の来ないうちに何とか云つてなだめなきやならないと思つたが、女はほんの僅かな猶予をさへ惜むかのやうにじりじりと男につめよつた。
「貴方は強情つぱりねえ。全くやせ我慢が強いのねえ。貴方は……貴方はあたしの様なやくざ女を……。あたし、やくざ……。」
彼はもう涙でものを言ふことが出来なかつた。男の膝に半身を投げかけて、声を出して泣きくづれた。
松村は女のするやうに任せて、ぢつと動かずに居た。そして打ち顫ふ女の房房した後髪をしげしげと見まもつて居た。
「いかにも俺は寂しい。」彼はかう思つて心に深い省察を加へて見た。売出しの少壮実業家と云はれて、俺は今若木の枝が芽を吹くやうにめきめきと世の中に延びて行く。先輩と云つても目に立つほどの人もなく、金があるからと云つて、ただそれ丈である。買被ぶられて居る彼等の信用と地位とは、遠くで見て居てこそ、素晴らしい勢力で、傑さ加減は側《そば》へも寄りつけない程にも思はれるが、段段近寄つて見ると、どれもこれも評判倒れがして居る。学問もない、見識もない、自分の事業に関する経験や智能の
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