る。ある晩お糸さんが、
「おもちやさんがさう云つてましたの、栗村さんは歌を歌はないといい人だけどとね、」と云つておなかを抱へて笑つた。
「正直でいいね。」私も一しよに笑つた。
「おもちやさんは栗村さんに惚れたのと聞きますと、あの子がおもしろいんですの。惚れたつてつまらないわ、年が違ふんですものと云ふんです。自分と同じ位の人でなくちやならないと思つてるんですね。」
「さうさ。三十と十四ぢや少し違ひすぎるかも知れんね。」
一年あまりの間に私達の遊びもやや気がぬけて来た。はずみがなくなつたと云はうか興味がさめたと云はうか。とにかく私達の足も大分遠のいて来た。
「すつかりお見かぎりですね。」などとお糸さんは電話をかけて来ることもあつた。私達は共時々いい加減の挨拶をして居たが、其頃は主に新橋で会遊するやうになつて居たのであつた。
「まあお珍らしいこと。」お糸さんは私の貌《かほ》を見るなりさう云つた。本統に久しぶりであつた。どうした気の向き様か草香君と一緒に半年振り程に「桔梗」へ行つたのである。
「此頃は新橋ださうですね。若くつて綺麗ですから御無理もありませんけれどねえ。」お糸さんはこんなことを云つて心《しん》から珍らしさうに※[#「欸」の「ム」に代えて「ヒ」、第3水準1−86−31]待《くわんたい》した。
「どうだ松田君は来るかい。」
「さあ、」と云つてお糸さんはためらつたが、思ひ切つたと云ふ風をして、
「貴方がたお遇ひになりませんの。」
「遇はんこともないが、あまり消息がくはしくないんだて。」
「さうですか。実は大変なんですよ。ほらあちらへ出て居るはご[#「はご」に傍点]ちやんね。」
「あのおばあか。」草香君が引取つて云つた。
「かはいさうに。まだ二十五にしきやなりませんもの。」
「二十五ならおばあだあね、」と私も云つて、
「どんな女だか私にはよく分らないが。」
「二三度一座なすつたでせう。あの楼《うち》ではお職株《しよくかぶ》ですの。もう本気になつて、松田さん松田さんつて、しよつちうのろけちらして居るんです。」
「それがどうした。」
「松田さんがうまいことをまたおつしやるんですから。何しろお若くてお立派で、それにお金持と云ふんですから、誰だつて本気になりまさあ、」とお糸さんは語調をくづして話をつづけた。
最初は連れとであつたが、此頃は松田はよくひとりでやつて来て、羽衣《はごろも》と云ふ女を買ひなじんだ。もう女としての見所もない大あばずれだと私達はきいて居た。松田もまだどこかにお坊つちやんの処はあるが、それかと云つてそんな女に打ち込むほどの初心でもないのである。お座なりのお世辞がだんだん身を縛つてしまつて、ぬきさしの出来ない破目《はめ》となつたのでもあらう。
「さうして松田はどうすると云つてるの。」
「為方《しかた》がないから借金だけ払つてやらうかと、おつしやつていらつしやいました。」
「馬鹿な、そんな事をしてどうなるか。」
「あたしもね、いろいろ考へて居ますけど、あたしから申上げたつてもねえ。」お糸さんは客の不為《ふため》の事となるといつもかう真面目であつた。
私と草香君とが松田の名で手紙を書いた。あんまり遊んだので首尾がわるくて上海の支店へ出稼ぎにやられた。何月の何日に東京を立つて何日に此地へついた。外国と云つた丈でも分るだらうが誠に寂しくてたまらない。かう云ふ趣意のものを書いてそれを上海の友人へ送つてそこから発信して貰ふ。一方松田君に遇つて姑《しばら》く足を遠のかせた。上海の消印のある手紙を請取つてお糸さんは女に見せた。手紙の表書はお糸さんにあてたので、お糸さんから女へ届くやうに仕組《しく》んであつたのである。女はすつかり真《ま》にうけて、
「松田さんの奥さんもあんまりだ。あれつぱかしの遊びがなんだ、」と云つて腹を立て、「それにしても松田さんこそお気の毒な。知らぬ他国へなんどやられて、養子と云ふものは辛《つら》いわねえ、」と云つて、お糸さんの前でほろはろ泣いて居たと云ふ事だ。
「桔梗」へ行き出してから三年ほど後の事であつた。私は種田君の事務所へ行つた。宮川も草香も先に行つて居て、雑話に耽つて居た。
「今お糸が来るぜ、」と種田君は私を見るなり云つた。
「へええ。どうしたんです。」
「なんだか、先生にお願ひがありますつて、今電話が来たんだ。」
「久し振だね。あの方面の噂も。」
「一体四人が揃つたのも久し振じやないか。」と一番年かさの宮川君が云つた。
「なんだか無事に治《をさ》まりさうもないな。」草香君は例の如くにやにやして居る。
「品川方面は御免だよ。」
こんなことを話し合つて居たが、お糸さんが来たら、何か一趣向《ひとしゆかう》をしようかと皆が思つてるらしかつた。
「今日はお糸さんがお客さんだ。」
「さあずうつとお先へ。」
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