のは、それは間違つてゐます。私は貴方をどうしました。私はいつ貴方に背きました。小夜子は長年連れそつた女で、澤山苦勞もかけたのですが、それでも私は棄ててしまひました。かうして別れ別れになつてる事は、恐らく小夜子の本心ではないでせうよ。それでも私は貴方と握手した。貴方は……あの蕪木《かぶらぎ》君。私の友人、私の同志である蕪木君の妻であつた。その貴方を私は愛したため、私が何程《どれほど》の犠牲を拂つたか、貴方はよつく御承知でせう。あの當時蕪木君は××の監獄へ送られて居たのでした。……。」男の聲は嗄《しはが》れた中にも熱を帶びて居た。
「貴方は蕪木も承知の上で手を切つたと仰有《おつしや》つたが、蕪木の心中はどうだつたんでせうか。私には分からなかつたのです。貴方は私と連名で蕪木へ發信した事があつたね。蕪木に比すれば私の狹い自由もまだ大きな範圍で、蕪木は手紙一本書くすら容易に許されない身でした。『汝、掠奪者よ』かう薄墨にかいた端書が來たとき、私は實に熱鐵をつかんだ樣な心持がしました。私は友に背き同志を賣つた、と思ふと私は晝夜寢る目も寢られなかつたんです。それでも私は貴方に背きはしなかつたではありませんか。それから私の窮乏|困蹶《こんけつ》が始まり、多數の同志は悉《こと/″\》く脣を反らし、完膚《くわんぷ》なきまでに中傷しました。××に買收された××だとまで凌辱されました。生活に窮した爲、藏書や刀劍や、祖母のかたみの古金錢までも賣り、母の住宅までも賣らねばならぬ樣になりました。それでも私は貴方に裏切りはしなかつたでせう。」
亨一ははふり落つる涙を拂つて詞《ことば》をつづけた。
「無拘束は私達の信條ですから、勿論戀愛も無拘束です。もし貴方の愛情が他へ移るのならそれも貴方の自由で私は何とも云はない積りです。妻と云ふ詞が從屬的の意義をもつて居るとすれば、貴方は私の妻ではありません。貴方は貴方で、獨立の女として、私は貴方の人格を尊重しませう。現に今日迄も尊重して來て居るつもりです。只私も貴方も戰鬪に疲れた。そして二人とも輕からぬ病氣を抱いてる。私が貴方に家庭の人と云つたのは、貴方に從屬を強ひたのではなくて、貴方に休養を勸告した積りです。小夜子の問題なんぞ、私と貴方とに取つて大した問題ではないぢやありませんか。それよりも、私達が生きなけりやなりますまい。健全に、活々《いき/\》した生命を養はなきやなりますまい。」云ひ切つて亨一はやさしく詞を和らげた。
「ねえ、もういいでせう。神經が起きると又いけないから。」
すず子は男の一語一語を洩らさず聞きとつた。それが中程になつた頃「もうよして下さい」と云はうと思つて詞が出て來ぬのであつた。「もういいでせう」と男が最後に云つたときは譯もなくただ悲しくなつてしまつた。
世に容《い》れられない思想に獻身する爲に、亨一は憲法が與へたすべての自由を奪はれた。十年奮鬪して何物をも贏《か》ち得なかつた。國家の基礎が動揺して、今にも、革命の慘禍が渦まくかの樣に思つたことは、どうやら杞憂《きいう》にすぎなかつたとも考へて見なければならなかつた。不滿と不平とに胸をわくわくさせて居ながら、何にも云はずに立ち※[#「廻」の「回」の部分が「囘」、第4水準2−12−11]つて行く流俗が却つて幸福であることを今更らしく思つても見なければならなかつた。今の人は讓歩と云ふことの眞意義を知らない。けれども姑息《こそく》の妥協は、政治、經濟の上では勿論、學問の上にも屡々《しば/\》行はれて、それで大きな勃發もなしに流轉して行く。讓るべき途《と》であると云ふ徹底的見地からするのと、讓るのが自己の利益だと云ふ利己的立場からするのと、意味がちがつて居ても、結果が屡同一に歸着する。そして社會の組織は割合に堅い根柢を作つて進んで行く。こんな平凡な議論にすら耳を傾けなければならなかつた。十重二十重《とへはたへ》にも築き上げられた大鐵壁を目がけて鏃《やじり》のない矢をぶつつけるやうな、その矢が貫けないからと云つて氣ばかりぢりぢりさせて居たことが、全く無意味に終つてしまつた。
僅に殘つた親友の大川をはじめ二三の人々は、亨一の將來を氣づかひ、あの儘にしておけば彼は屹度《きつと》終りを全くすることが出來なくなると云つて、其前途を危んだ。それで誠實と熱心とを以て亨一に生活の轉換を説き、ある方法によつてある程度の自由が亨一に與へられるやうに心配もした。東京に居ちやいけないと、諸友は頻《しき》りに隠栖を勸めた。煩雜と抵抗の刺戟から逃れて温泉地へでも行けと云つた。之等《これら》の默止すべからざる温情が亨一の荒《すさ》んだ心に霑《うるほ》ひを與へた。三月の初めに東京を逃れて此地に來た。山間の温泉場ではあるが、東京から名古屋へかけての浴客を吸集して、旅館の甍《いらか》は
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