高く山腹に聳えて居る。清光園と云つて浴客の爲に作られた丘上の遊園地の一隅に、小さな空家があつて、亨一はその家《うち》を借りて移り住んだ。
 五月になつた。太陽の熱が南の縁に白くさす日がつづいた。若葉はいい薫の風を生んだ。畑には麥の緑と菜の花の黄色が敷かれた。清澄な山氣を吸ひ、溢るる浴泉をあびて、筆硯を新にした亨一はすつかり落着いてしまつた。平安閑適の生活が形成されそうにも思はれて來た。土色の頬には光澤が出て來て、かすれた聲にも凛《りん》とした響が加はつて來た。かうして一年も二年もくらして居られたら、そしてすず子がもすこし自分の今の氣分に調子を合せてくれたら、本當に讀書人となつてしまふことが出來るかもしれない。亨一はかう思ふごとにすず子に教訓した。もつと落着いてくれませんかと。けれどもすず子のひねくれた感情は容易に順正に復さなかつた。此《この》隱れ家にあてて多くの同志からの通信がくる。すず子はその名宛が誰れであらうともみんな自ら開封した。亨一には自分で讀んで聞かせる位にして居た。返事は大抵自分で書く。亨一は著述に忙しいからでもあるが、すず子はまた成るべく社會の人の音信が聞きたかつたのである。中に二三の人からすず子にあてた極めて簡單な手紙が、すず子の心熱を煽《あふ》るらしかつた。時にはそれを亨一にも秘《かく》すことすらあつた。重大な豫報が何であるか、亨一には略《ほぼ》推測がついた。
 女の頬には段々やせが見えて來た。朝からぢつと鬱《ふさ》ぎ込んで、半日位は口をきかない樣なこともある。さう云ふ時に限つて、女の様子は一面そは/\して居るのであつた。夜なども胸苦しさうに溜息をしたり、寐返りをしたりして、容易に寐付かれないらしい。こんな事が幾晩も幾晩もつづくことがあつた。ある晩亨一は晝の労作のつかれで宵の中からぐつすり寐入つた。そして夜中に目をさました。もう全くの深更であつた。そつと頭を上げて女の容子《ようす》をうかがつた。すやすやと女の微かな寐息がする。
「今夜はよくねむつてゐる。」亨一はかう思つて枕許のマッチをすつて女の傍《そば》へ火をかざした。女の寐姿が明るく男の目にうつつた。きつと結んだ口許には不穩の表情がある。泣き乍ら寐入つたのではあるまいかとも思はれる顏付である。火がきえると室は再びもとの暗に戻つたが、今見た女の寐顏がはつきりういて見える。亨一は起き上つてランプに火
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