か》まされると云ふことなど、みんな意思の命ずる処ではないのだ。俺の生活は下らない感覚の顫動の為に攪乱《かうらん》されるやうな、そんな浮《うは》ついたものではない。
「被告は決して悪人ではありません。」よく法廷で弁護人が弁論する。
「被告は決して犯罪を犯す積りではありませんでした。只その時の被告の身の上には非常な災難が降りかかつてゐました。甲のこと。乙のこと。丙丁の関係。被告はどうすることも出来ない困迷の結果、本件犯罪事実の如き行為を敢てしたのであります。敢てしなければならない結果になつたのであります。被告は決して悪人ではありません。」
かう云つてしまへば世の中に悪人は丸《まる》でないことになる。けれども俺は此弁明を直《ただち》に認容することは出来ない。人間に自由があると云ふことは空中の鳥の様な自由でない。社会組織によつて整理された自由である。之を制限された自由と云つてもいい。法律は人の行為の限界を定めて、動くべき場所と動くべからざる場所との区劃をつけて一本の縄を引いて居る。その縄張の一線が善悪の境界線である。そこまで来て一呼吸するかしないかが善悪の岐《わか》れる大切な処なのだ。其場合に或者は呼吸《いき》もつかずに飛び込んでしまふ。足が縄にからまつて、ばつたり倒れる。之が法廷に於ける被告の多数だ。之を悪意がないと云つても、法律は許さない。社会の秩序が許さない。中にも今日《こんにち》の郵便窃盗の如く、最初から隙を覘《ねら》つて居たものは論外である。此程の犯人は犯罪の計画自体が其一切である。予定の行動を予定の如く採つたと云ふべきものである。一国通信機関の秩序と信用とを破壊すると云ふ点に於て、彼には根強い悪性がある。斯の如き被告には同情もない、酌量すべき事情もない。重く罰しなければならない悪人だ。
判事は机の下へ落ちた本を拾ひ上げた。そして頭を二三度振つて見た。少し重い、心《しん》が少し痛い。
「風邪でも引いたのかしらん。」
判事はかう思つて又ぐたりと横になつた。
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註 本篇は素より作者の創作である。殊に後半は全然空想である。モデルの誰たるかを模索することの無意味なる事を、特に読者にお断《ことは》りしたい。[#地から1字上げ](大正二・一稿/「スバル」大正二・二/『畜生道』 所収)
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底本:「定本 平出修集」春秋社
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