険相《けんさう》な顔付を考へると、何にもかも嫌になつてしまふ。
「それでも俺は金を送つた。行かなきやならんのではあるけれど、と云つて取り敢《あへ》ず、俺には大変な犠牲である弐拾円を今朝出したんだ。」
「之れ以上。…………。俺が顔を出した処で…………。俺は医者でない。病気は癒らない。金さへ見れば伯母は喜ぶんだ。」
判事はあの欝陶《うつたう》しい部屋で、あの気色《きしよく》悪い人間の死を訪《おとづ》れることを避ける為には、少くない金をも吝《をし》まなかつた。婚礼と新築祝ならいつでも行くんだけれど、俺は病人や葬式は真平だ。彼はいつもかう云ふことを云つては家内に笑はれてゐたものである。
「伯母はきつと喜ぶだらう。」判事は自分の手紙を手にして、床から起き直つて、押しいただいて居る病人を想像してにつこと笑つた。
「もし届かなかつたら。」ふいと判事は気がかりなことを思ひ出した。脊髄のあたりがすこし疼《うづ》くやうな感じがした。書留にしなかつたからと云ふことが殊更不安を感じさせるのであつた。「僅か拾銭を倹約した為に」と思ふと、急に忌忌《いまいま》しくもなつてくる。もし届かないとなると俺はどうしたらいいだらう。も一度送らなければならないのか。送らなければ俺の心は通じない。送つたんだが盗まれたと云つた処で、伯母から見れば送らなかつたと同じである。俺が送る丈けの志はあつたんだと云ふことだけは、伯母も、その他の親戚も認めてくれるかもしれないが、認めて貰つたつて、やはり伯母の手には何もはいらない。俺は俺だけのことをしたのであるけれどそれが全く空《くう》に帰したとなると、俺の行為は結果を産《う》まない行為である。いや結果は産んだ。泥棒をして盗ませると云ふ結果だけは。そしてそれは俺が予期しない意外なものであるのだ。
「其日は大雨で…………。」とあいつが云つたと、判事は今日の公判廷に於ける郵便窃盗を思ひ起した。あの阿呆面《あはうづら》の男がよくも郵便物を盗んだものだ。人間の意思と云ふものはすべての動作の基礎を作るんだ。道徳、法律、其他人間の行為を批判する法則は、みんな此意思の発展の上に組み立てられてあるのだ。その重要な意思の伝達の機関として、国家自ら郵便制度を作つて、事業の経営を自らして居る。通信の安固と秘密。之がなくなつて誰か日本を文明と云はうぞ。あいつは文明を破壊する兇徒《しれもの》だ。
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