した。それが俺の外行《よそゆき》のときの冠《かんむり》とも衣服ともなつて、とにかく見かけだけは正確らしい姿にもなる。今夕《こんゆふ》はもう心の上に被《はを》つたものは脱ぎすて、素つ裸になつて、盛んに感情をのみ動かして居た。自分で動かさうと思つて動かしたのではないけれど、押石《おもし》をとれば接木《つぎき》の枝が刎《は》ねかへる様に、俺の感情も押石の理智が除かれたから、自《おのづか》ら刎ねかへつて、その恣《ほしいまま》な活動を起して来たのである。俺は又それを押へようとはしないで、むしろ其|迸《ほとばし》るが儘に任せて、ぢつと結局を見つめてやらうと思つた。
「何がそんなに不満なんだい。」俺は自ら心に問うて見た。こんなことを問うたつて誰が答へるものか。今俺の感情は甚だしく乱調になつて居るのだ。何をどうしようかと云ふやうなことの、筋道がどうして立て得られるものか。俺は滅茶苦茶に不満なんだ。今日逢つた奴等の顔から始めみんな面白くないんだ。
彼は起き上つた。机に頬杖して黙つて硝子越しに庭先を見入つた。八坪程しかない庭の片隅に小さい檜葉《ひば》に交つた一本の山茶花が、薄色に咲いていかにもはかなげな夕暗の寂しい気分を漂はせて居る。竹垣の直ぐ向《むかふ》は隣家の平家造の蔀《しとみ》のさびれた板にしきられて、眼界は極めて狭い不等辺三角形の隙から、遠い空中が覗《のぞ》かれる丈である。空には何の色もない。
鷲のやうな目をした頤鬚の濃い同僚の一人を思ひ出した。「行政官はやはり早いですなあ。」かう云つてあの男は俺を見てにやりと笑つた。俺はその時官報を披《ひらい》いて見て居つた。それはあの男が見ろと云つて俺に指示した叙任欄のある箇所であつた。高井某が某省の局長となつた。俺と同窓であつたが、俺とは競争相手にもならなかつた男であつた。同じく卒業して同じく司法部へはいつたがあの男は検事を志望して早く行政部へ転じてしまつた。追追重く用ゐられるやうになつて今度の政変で一躍して局長に昇進した。
「俺はかうして何年も何年も同じ所に燻《くすぶ》つて居るんだ。そして昇級の宛《あて》もない。」俺はあの男の身の上を羨むと云ふのではないけれど、名利を慕ふ俺の本能は顫ひを感じた。その鼻先へ出て「行政官は早いですなあ」と俺の顔と官報とを一目で覗き分けをしつつ云つたあいつの顔は「この冷笑と侮蔑と憐憫とを君に捧げよう」と云
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