至るまで持続せられて行く生に対する脅しを恐れたのである。殺されると云ふそのことが彼には堪へ難い惨苦を想はせたのである。殺されることなら一層自ら死なう。それが無造作な彼の覚悟であつた。その覚悟が出来たのちも彼は尚口舌の慾を貪ることを忘れはしなかつたのである。之を以て彼は生を愛したものだとも云得るかもしれないが、むしろ之は、彼が死そのものを真に求めて居るのでもなく、又死そのものを真に恐れて居るのでもないと云ふ方に解したらよからう。それ故彼は洋食を食つて十分食慾を充たし得たとき死と云ふことから全く離れてしまつたではないか。東京の模様によつては必ずしも死なずにすむかもしれないと考へた。即ち彼の生に対する脅かしさへなくなれば、彼は死ぬほどのことはないとも思つた。生の執着からでもなく、死の恐怖からでもなく、只目前の苦痛が彼を、いろ/\に煩悶させたに過ぎない。死んでしまつた方が楽でありさうだから死ぬ。もしそれよりも楽なことがあればその方法を採らう。何れにしろ今の苦艱から免れたい。彼は頗る単純に考へたにとゞまる。彼が二度目の自殺を企てたとき看守長の為にとめられた。此障礙は寔に偶然のことである、彼はこの偶然の障礙を呪はうともせず、又此偶然さへなくば自分はもう死んで居たのであると云ふ苦悶をも考へずに、彼は、「危機一発」であつたと只思つたに過ぎない。彼から見れば、死も生も同一の事の様にも取扱はれてるらしい。彼は第三者の地位に立ちて自己の自殺を客観して語ることが出来る。何もかもすつかり超越してゐるとも見える。「死と生とは天才にとつては同じことだ」と云つた杜翁《とをう》の言を以てすれば、彼も天才であると云はなければならない。若い弁護人は今更らしい真理の発見者であるかの如く心に微笑した。
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時は明治ヽヽ年ヽ月ヽヽ日、一代の耳目を聳動せしめた。某犯罪事件の判決の言渡のある日である。開廷数時間前既に傍聴席は満員となつた。傍聴人は何れも血気盛んな、見るから頑丈な、腕つぷしの強さうな人のみであつた。何しろ厳冬の払暁に寝床を刎起きて、高台から吹きなぐる日比谷ヶ原の凍つた風に吹き曝され、二時間も三時間も立明し、狭い鉄門の口から押合ひへし合つて、やつと入廷が出来るといふ騒ぎだから並一通りの体格の人では、とても傍聴の目的を達することが出来ないのである。其多くは学生の装
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