の瞬間にはほとんど真逆様に奈落の底までおちよとばかり叩きつけられる。さすがの漁夫たちも目をつぶって舟底にへばりつくばかりだった。――今はもう引きあげるのほかはなかった。
 まだ半分も詰め込みのすまない枠網は親舟に繋留して浜べへ急ぐことになった。鰊汲舟にはなお三石から五石ぐらいの鰊を入れていた。漁夫たちは身軽になるために、今はやむを得ずその鰊を海中に抛棄しなければならなかった。
 霙は吹雪とかわり目もあけて居れないぐらいに吹きつけて来た。天も海も真黒に塗りつぶされた闇のなかに、カンテラの光りがかすかに明滅し、海鳴りと風の咆哮とが、その音を競い合った。
 瞬間、ふたたび小山のような大波が来た。
 ちょうど源吉の乗っている舟だった。九天の高さから真逆様に叩きつけられる刹那、思わず目をつぶった源吉は、耳元にかすかにあッという叫び声を聞いたとおもった。――大波がすぎ去り、ほっと息をついて船中の闇を見まわしたとき、彼は急にぞっとした寒さを襟元に感じた。
「おーい、」と彼は大声で叫んだ。
「おーい、」と舟のなかの仲間はすぐに答えた。
 人々は闇のなかで互いに呼び合った。しかしその声は源吉を加えて四人だった。一人足りないのだ。漁夫のうちで一番年長の、このごろ神経痛になやんでびっこをひいていた、六助という親爺だった。
 それと知った人々は、こんどは暗闇の海に向って叫びはじめた。船端から身をのり出すようにして、声を限りに叫んだ。返事はなく答えるものはただ風と波のおとだけだった。

 晴れた朝がやがておとずれたが、六助親爺の死体はついにあがらず仕舞だった。破損した網の修理やなにかでしばらく仕事を休む日がつづいた。
 六助は隣村の、やはり農閑期を利用して毎年鰊場かせぎをしていた百姓だった。遭難後二三日すると、頭一面に瘡《カサ》のできたわらし[#「わらし」に傍点]の手を引いて、嬶が泣く泣くやってきた。帳場に会ってしきりに何かくどくどと訴えているらしい姿がとおくから見られた。
 彼女が帰ったあとで、その時彼女が帳場からもらった慰藉料がたった三十円だったといううわさが、どこからともなく伝わると、漁夫たちはわきたった。
「人間一匹の価、三十円とはどうでえ。」
「つぶして売ってももっとにはなるべえ。」
 彼らはふんがいし、旦那と帳場の仕打を恨んで口々にわめきたてた。
 食事の時だった。めったにそんな
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