は岡田のような心の状態には至り得なかった。岡田の世界は太田にとってはついに願望の世界たるに止まったのである。――そこにも彼はまた寂しい諦めを感じた。
刑務所の幹部職員の会議では、太田と岡田とを一つ棟におくことについて問題になっているということであった。そうした噂《うわ》さがどこからともなく流れて来た。二人が立ち話をしていたのを、一度巡回の看守長が遠くから見て担当看守に注意をしたことがあったのである。二人を引きはなす適当な処置が考えられているということであった。――だが、そうした懸念はやがて無用になった。太田の病気はずっと重くなったからである。
粥《かゆ》も今はのどを通らなくなって一週間を経たある日の午後、医務の主任が来て突然太田の監房の扉をあけた。冷たい表情で無言のまま入って来た二人の看病夫が、彼を助け起し、囚衣を脱がせて新らしい浴衣《ゆかた》の袖を彼の手に通した。朦朧《もうろう》とした意識の底で、太田は本能的にその浴衣に故郷の老母のにおいをかいだのである。
太田が用意された担架の上に移されると、二人の看病夫はそれを担《かつ》いで病舎を出て行った。肥《ふと》った医務主任がうつむきかげんにその後からついて行く。向うの病舎の庭がつきるあたりの門の側には、太田に執行停止の命令を伝えるためであろう、典獄補がこっちを向いて待っているのが見える。――そして担架でかつがれて行く太田が、心持ち首をあげて自分の今までいた方角をじっと見やった時に、彼方の病室の窓の鉄格子につかまって、半ば伸び上りかげんに自分を見送っている岡田良造の、今はもう肉のたるんだ下ぶくれの顔を見たように思ったのであるが、やがて彼の意識は次第に痺れて行き、そのまま深い昏睡のなかに落ちこんでしまったのである……。
底本:「日本の文学 第40巻」中央公論社
入力:山形幸彦
校正:野口英司
1998年8月20日公開
2005年12月22日修正
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