っていたいたしく、どこかへ引きずられて行ったが、その夜から、この隔離病舎にほど近い狂人《きちがい》監房からは、咽喉《のど》の裂けるかと思われるまで絞りあげる男の叫び声が聞えはじめたのである。それは金の声であった。哀号、哀号、と叫び立てる声がやがて、うおーッうおーッというような声に変って行く。それは何かけだものの遠吠《とおぼ》えにも似たものであった。――そういう夜、五位鷺《ごいさぎ》がよく静かに鳴きながら空を渡った。月のいい晩には窓からその影が見えさえした。
梅雨《つゆ》に入ってからの太田はずっと床につきっきりであった。梅雨が上って烈しい夏が来てからは、高熱が長くつづいて、結核菌が血潮のなかに流れ込む音さえ聞えるような気がした。それと同時に彼はよく下痢をするようになった。ちょっとした食物の不調和がすぐ腹にこたえた。その下痢が一週間と続き、半月と続き――そして一と月に及んでもなお止まろうとはしなかった時に、彼は始めて、ただの胃腸の弱さではなく自分がすでに腸を犯されはじめていることを自覚するようになったのである。診察に来た医者は診終ると、小首を傾けて黙って立ち去った。
そのころから太田は、自分を包む暗い死の影を感ずるようになった。寝台の上にちょっと立ち上っても貧血のために目の前がぼーッとかすむようになると、彼はしばしば幻影に悩まされ始めた。剥《は》げかかった漆喰《しっくい》の壁に向ってじっと横臥《おうが》していると、眼の前を小さな虫のような影がとびちがう。――その影の動くがままに眼を走らせていると、それが途方もない巨大なものの影になって壁一ぱいに広がってくる。それはえたいの知れない怪物の影であることが多かった。恐怖をおさえてじっとその影に見入っていると、やがてそれがぽっかりと二つに割れ、三つにも、四つにも割れて、その一つ一つが今もなお故郷にいるであろう、老母の顔や兄の顔に変るのである。それと同時に夢からさめたように、現実の世界に立ちかえるのがつねであった。――夜寝てからの夢の中では、自分が過去において長い長い時間の間に経験して来たいろいろの出来事を、ほんの一瞬間に走馬燈のように見ることが多かった。そういう時は自分自身の苦悶《くもん》の声に目ざめるのであった。太田は死の迫り来る影に直面して、思いの外平気でおれる自分を不思議に思った。ものの本などで見る時には、劇的な、浪漫
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