み惜しみ食ふのである。ひとしきり四人の間にその分配について爭ひが續いたのち、靜かになつた監房の窓ごしに、ぺちやぺちやといふ彼ら癩病人達の舌なめずりの音を聞く時には、そぞろに寒け立つ思ひがするのであつた。――彼らは少しも變らないやうに見えたが、しかし仔細に見ると、やはり冬から春、春から夏にかけて、わづかながら目に見える程の變化はその外貌に現はれてゐるのである。夏中は窓を開け放してゐても、この病氣特有の一種の動物的惡臭が房内にこもり、それは外から來るものには堪へがたく思はれる程のもので、擔當の老看守すら扉をあけることを嫌つて運動にも出さずに放つておくことが多かつた。さうすると彼らは不平の餘り足を踏みならし、一種の奇聲を發してわめき立てるのであつた。
5
夜なかに太田は眼をさました。
もう何時だろう、少しは眠つたやうだが、と思ひながら頭の上に垂れてゐる電燈を見ると、この物靜かな夜の監房の中にあつて、ほんの心持だけではあるがそれが搖れてゐるやうにおもはれる。凝つと見ると、夏の夜の驚くほどに大きな白い蛾が電燈の紐にへばりついてゐるのだ。何となはしに無氣味さを覺えて寢返りを打つ途端に、あゝ、またあれ[#「あれ」に傍点]が來る、といふ豫感に襲はれて太田はすつかり青ざめ、恐怖のために四肢がわなわなとふるへてくるのであつた。彼は半身を起してぢつとうづくまつたまゝ心を鎭めて動かずにゐた。すると果してあれ[#「あれ」に傍点]が來た。どつどつどつと遠いところからつなみでも押しよせて來るやうな音が身體の奧にきこえ、それが段々近く大きくなり、やがて心臟が破れんばかりの亂調子で狂ひはじめるのだ。身體ぢうの脈管がそれに應じて一時に鬨の聲をあげはじめ、血が逆流して頭のなかをぐるぐるかけ巡るのがきこえてくる。齒を食ひしばつてぢつと堪へてゐるうちに眼の前がぼーつと暗くなり、意識が次第に痺れて行くのが自分にもわかるのである。――暫くしてほつと眼の覺めるやうな心持で我に歸つた時には、激しい心臟の狂ひ方は餘程治まつてゐたが、平靜になつて行くにつれて、今度はなんともいへない寂しさと漠然とした不安と、このまゝ氣が狂ふのではあるまいかといふ強迫觀念におそはれ、太田は一刻もぢつとしては居れず大聲に叫び出したいほどの氣持になつて一氣に寢臺を辷り下り、荒々しく監房のなかを歩きはじめるのであつた。手と足は元氣に打ちふりつゝ、しかも泣き出しさうな顏をしてうつろな眼を見張りながら。――ものの二十分もさうしてゐたであらうか、やがてやゝ常態に復ると心からの安心と共に深い疲れを感じ、氣の拔けた人間のやうに窓によりかゝつて深い呼吸をした。彼は肺に浸み渡る快よい夜氣を感じた。窓から月は見えなかつたが星の美しい夜であつた。
――強度の神經衰弱の一つの徴候ともおもはれるかうした心悸亢進に、太田はその年の夏から惱まされはじめたのである。それは一週に一度、或ひは十日に一度、きまつて夜に來た。思ひ餘つた彼は、體操をやつて見たり、靜坐法をやつて見たりした。しかしその發作から免れることはできなかつた。體操や靜坐法や――太田はさういふものの完全な無力をよく熟知しながらも自分を欺いてそんなものに身を任せてゐたのだ。病氣と拘禁生活による心身の衰弱にのみ、かうした發作を來す神經の變調の原因を歸することは彼にはできなかつた。彼はその原因のすべてでないまでも、有力な一つを自分自身よく自覺してゐたのである。――若い共産主義者としての太田の心に、いつしか自分でも捕捉に苦しむ得體《えたい》の知れない暗いかげがきざし、その不安が次第に大きなものとなり、確信に滿ちてゐた心に動搖の生じ來つたことを自分自ら自覺しはじめ、そのために苦しみはじめた頃から、彼は上述の發作に惱むやうになつたのであつた。
太田の心のなかに漠然と生じ來つた不安と動搖とは一體どんな性質のものであつたらう、彼自身はつきりとその本質をつかみえず、そこに惱みのたねもあつたのだが、動搖といふ言葉を、彼が從來確信をもつて守り來つた思想が、何らかのそれに反對の理論に屈服し崩れかゝつて來た――といふ意味に解するならば、いま、彼の心にきざして來た暗い影といふのはさういふ性質のものではない、といふことだけはいへる。太田の心の動搖は、彼がこゝの病舍で癩病患者および肺病患者のなかにあつて、彼等の日常生活をまざまざと眼の前に見、自分も亦同じ患者の一人としてそこに生活しつゝある間に、夏空に立つ雲の如くに自然にわいて來たものであつた。それはつかまへどころのないしかし理窟ではないところに強さがある、といつた性質のものであつた。――言ふならば太田は冷酷な現實の重壓に打ちひしがれて了つたのだ。共産主義者としての彼はまだ若く、その上にいはばインテリにすぎなかつたから、實際生活の苦
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