さきなしに記憶してゐるにすぎない。いはゞ當時の彼は半ばものぐるひに近いものであつたのであらう。古賀のあたらしい慘めな生活といふものは、だから、その一と月を經てふたゝびもとのところへ歸つて來たときからはじまつたといへる。うつろな心をいだいていま彼は手さぐりで暗の世界を彷徨しはじめた。――
 房の外では一と月まへとなんのかはりもなく、――いや、おそらくは古賀の生れない昔からこのとほりであつたらうとおもはれるほどに、平凡に、しかし少しの狂ひもない規律の正しさで物事が進行してゐるのであつた。刑の確定した被告は送られ、新らしい犯罪者がそれに入れかはる鍵と手錠のつめたい鐵のひゞきがひねもすきこえ、やがて夜になり、また朝が來、おなじことが毎日無限にくりかへされてゆく。
 古賀ひとりの身の上にどんな不幸が起らうが、そんなことはなんのかゝはりもないことなのだ。個人の幸不幸なんぞはみぢんにはねとばし、一つの巨大な齒車がおもいうなりごゑを立てゝまはつてゐるのである。古賀は蟲けらのやうな、棄て去られ、忘れ去られたみじめな自分自身を感じた。この冷酷な、夢幻をも哀訴をも、ましてあまえかゝることなどはうの[#「うの
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