つた。私は未練らしく川のあちらこちらを何度も眺め廻したあとでたうとうそこを立ち去つてしまつた。
 しかし川に沿うて下つて、まだ五間と行かぬうちに、思ひもかけぬところで再び彼と逢つたのである。
 今度はすぐ眼の下、こつち岸に近いところだつた。そこは水も深く大石が幾つもならんでゐて、激して泡立つた流れの余勢が、石と石との間で蕩揺《たうえう》したり渦《うづ》を作つたりしてゐた。そしてさういふ石陰の深みの一つに赤蛙は落ち込んでゐるのだつた。かうなつた順序は明らかだつた。押し流される毎に中洲の突端にすがりついてゐた彼は、もうその力もなくなつて流されるがままになつたのだ。洲をはさんで一つに合した水の流れは大きく強くなつて、煽《あふ》るやうな勢で、こつち岸へ叩きつけてよこしたのだ。事態は赤蛙にとつて、悲惨なことになつてしまつてゐた。彼は蕩揺する波に全く飜弄《ほんろう》されつつある。辛うじて浮いてゐるに過ぎぬやうだが、それが彼の必死の姿であることは、彼の浮いてゐる石陰のすぐ近くには渦巻があつて、絶えずそこへ彼を引きずり込まうとしてゐることからもわかるのだつた。彼に残された活路はたつた一つきりだつた。石に這ひ上ることである。だが、その石の面たるや殆ど直立してゐて、その上に水垢《みづあか》でてらてらに滑つこくなつてゐるのだ。長い後肢も水中では跳躍力もきかず、無力に伸ばしたりかがめたりするのみだつた。時々彼の前肢は石の小さな窪みに取りついたが、すぐにくるつと引つ繰り返つて紅い斑点のある黄色な腹を空しくもがいた。私は何か長い棒のやうなものを差し伸べてやりたかつたが、そんなものはあたりには見あたらなかつた。今はただぢつとその帰趨《きすう》を見守つてゐるばかりである。
 やがて赤蛙は最後の飛びつきらしいものを石の窪みに向つて試みた。さうしてくるつとひつくりかへると黄色い腹を上にしたまま、何の抵抗らしいものも示さずに、むしろ静かに、すーと消えるやうなおもむきで、渦巻のなかに呑みこまれて行つた。私は流れに沿うて小走りに走つた。赤蛙が再び浮くかも知れぬ川面《かはづら》のあたりに眼をこらした。しかし彼は今度はもう二度と浮き上つては来なかつた。
 私はあたりが急に死んだやうに静かになつたのを感じた。事実にはかに薄暗くなつても来てゐた。私は歩きながらさつきからのことを考へつづけた。秋の夕べ、不可解な格闘を
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