て……えらい力なんですもの。」
「そうだろう、あいつなら。……しかしそうかなあ、やっぱしあいつだったかなあ……」
猫は風呂場に縛りつけられているという。母は自分でいいようにするからといっているという。若い者には手をつけさせたがらないのだが、そうでなくても妻などは恐がってしまっている。秋の夜はもうかなり冷える頃であった。妻は寒そうにまた寝床に這入った。
私はすぐには眠れなかった。やはり彼奴であったということが私を眠らせなかった。そう意外だったという気もしなかったし、裏切られたという気もしなかった。何だか痛快なような笑いのこみあげてくるような気持だった。それは彼の大胆不敵さに対する歎称《たんしょう》であったかも知れない。そういえば彼奴ははじめから終りまで鳴声ひとつ立てなかったじゃないか。私は今はじめてそのことに気づいた。すぐ下の風呂場にかたくいましめられている彼を想像した。母はもう寝に行ってしまっている。風呂場からは声もカタリとの物音もしなかった。逃げたのではないかと思われるほどであった。
翌朝母は風呂場から引きずり出して裏の立木に縛りつけた。
「お母さんはどうするつもりなんだ?」
「無論殺すつもりでしょう。若いものは見るものでないといって、わたしを寄せつけないようになさるんです。」
私は母に黒猫の命乞いをしてみようかと思った。私は彼はそれに値する奴だと思った。私は彼のへつらわぬ孤傲《こごう》に惹《ひ》かれている。夜あれだけの事をして、昼間は毛筋ほどもその素ぶりを見せぬ、こっちの視線にみじんもたじろがぬ、図々しいという以上の胆の太さだけでも命乞いをされる資格がある奴だと思った。人間ならば当然一国一城のあるじである奴だ。それが野良猫になっているのは運命のいたずらだ。毛の色がきたないという偶然が彼の運命を支配したので、そんなことは彼の知ったことではない。卑しい諂《へつら》い虫《むし》の仲間が温い寝床と食うものを与えられて、彼のような奴が棄てられたということは人間の不名誉でさえある。しかも彼は落ちぶれても決して卑屈にならない。コソコソと台所をうかがったりしない。堂々と夜襲を敢行して、力の限り闘って捕えられるやもはやじたばたせず、音もあげぬのである。
しかし私は母に向って言い出せなかった。現実の生活のなかでは私のそんな考えなどは、病人の贅沢《ぜいたく》にすぎなかった。
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島木 健作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング