と今はそのものに體あたりでぶつかつて見せる氣力の充實を彼は感じた。
それにしても誰の仕事だらう? 大西かな、木村かな、と親しみ深い青年たちの顏を杉村は思ひ出してゐた。捕へられた日の朝、杉村は一通の文書を受けとつたのである。讀んで短い時間のうちに處分しなければならぬ文書だつた。しかし彼はそれを讀み、何かの方法で心おぼえに書きとめておきたい内容をその文書に見た。すぐにそれを果すべきではあつたが、演説會の時間が迫つてゐたので、封筒のなかに入れ、ある所にしまひこんで彼は家を出て行つた。めつたにない不注意を犯して了つたのは、そこの演説會をすますと一度歸つて來るつもりであつたからだ。捕へられてしばらくは、尋常一ぺんの檢束とたかをくくつてゐたからであらう、彼はそれについて餘り考へもしなかつた。しかしすぐに彼らの檢擧の眞の性質を知つてからは、夜も晝も絶え間なく彼を責めさいなんだものは許すべからざるさきの日の不注意だつた。それを思ふだけで杉村の滿身の血は凍つた。事務所は當然荒されてゐる筈である。もしもあれが人手にはいつたら!
不安にをののきながら一日も早い取調べをその爲に彼は願つた。そして今彼はすべてがかつて思つても見なかつたほどに有利に解決されてゐることを知つたのである。青年のうちの誰であらう? 彼はふたたびそれを考へた。彼が捕はれ、事務所が荒されるまでにはほんのちよつとの隙があつたにちがひはない。その隙に乘じての青年たちの敏速な行動であつたのである。それにしても彼はかつて自分が青年たちの知らない組織の一人であることを明したことはなく、ましてさういふ場合の處置について依頼したことはなかつたのだ。それだけに感動は大きく、こみあげて來る熱いものをせきとめることはできなかつた。――
「まあいい、今日は歸れ。」
内田の聲に杉村は囘想を斷たれた。内田が立つたので彼も亦立つた。立上つた内田は何か考へてゐるふうであつたが、ちよつと待て、といつて次の室へ行き、風呂敷包みを一つ下げて戻つて來た。かなりの嵩のものを机の上にどさり、とおき、
「大西つて知つてるだらうな?」
と訊いた。
今はくらべもののないほどの大いさで彼の心を占めてゐるその名をふいに指され、杉村は思はずぎくりとした。きつとした心で顏をあげた。それには一向氣づかぬらしく、内田は自分で風呂敷包みの結びを半分ときかけながらつゞけた。
「特別待遇だぞ。大西の差入れだ。差入れなんて、まだ許す時ぢやないんだが、俺がはからつてやるんだ。」
包みを披いてみると、袷、洗濯したメリヤスシヤツ、猿又、紙などがあり、その上に別の一包みになつて、飴玉と花林糖の紙袋があつた。
「御馳走になります。」とことわつて、また腰をおろし、杉村は飴玉を口に入れた。ただしやぶつてゐるのがもどかしく音をさせて噛み碎いた。袋を見ると事務所の前の駄菓子屋のそれである。彼らの研究會のすんだあとによく買ひつけてゐた店であつた。大西の無事はこれでわかつた。もう一つ知りたいことがある。自分とおなじ状態にあるといふことだけしかわかつてゐない小泉の消息である。それを内田に訊かうとし、咽喉まで聲が出たが、ぐつとおさへつけた。
部屋のなかで着替へ、今まで着てゐたものをそこの隅におき、杉村は房へ歸るために廊下へ出た。
廊下の窓はどこも開け放たれ、爽かな風が音を立てて流れてゐた。もういつか四月も末であつた。窓のすぐ下は賑やかな道路で、春日のなかによそほひのあらたまつた人々の往き來する姿が美しかつた。失はれた自由がまた強く胸に來た。すぐ目の前の電柱に何か大きなポスターが貼つてある。斜に貼つてあるので「赤化思想排撃大演説會」の文字と、その肩にならんでゐる辯士たちの顏ぶれまでがよく見えた。東京から來た二三の名士にならんで、石川その他二人の名がまじつてゐた。いつもの年ならあのポスターの代りにもうメーデーのそれが貼られる頃だが、と杉村はちよつとそんなふうに考へた。さうしたものが公然と貼られてゐる事實は、その後の組織の運命をもの語つてゐるやうであつたが、それを見、今の自分をふりかへつて見ても、すべてが終つたとの感じはしなかつた。むしろ反對の、まだ踏み出したばかりだとの感じの方が強かつた。杉村はさつきからずうつと大西たちの姿をそこにあるもののやうにはつきりと眼に見つゞけてゐたのである。うながされて彼は暗い部屋につゞく階段を下りて行つた。[#地から1字上げ](一九三五年六月・中央公論)
底本:「島木健作作品集 第四卷」創元社
1953(昭和28)年9月15日初版発行
初出:「中央公論」中央公論社
1935(昭和10)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2010年3月9日作成
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