ビの「おほぞら」は底本では「おほそら」]は、見《み》る/\内《うち》に西《にし》の方《かた》から曇《くも》つて來《き》て、熱帶地方《ねつたいちほう》で有名《いうめい》な驟雨《にわかあめ》が、車軸《しやぢく》を流《なが》すやうに降《ふ》つて來《き》た。海《うみ》の面《おもて》は瀧壺《たきつぼ》のやうに泡立《あわだ》つて、酷《ひど》いも酷《ひど》くないも、私《わたくし》と少年《せうねん》とは、頭《あたま》を抱《かゝ》へて、艇《てい》の底《そこ》へ踞《うづくま》つてしまつたが、其爲《そのため》に、昨夜《さくや》海水《かいすい》に浸《ひた》されて、今《いま》漸《やうや》く乾《かわ》きかけて居《を》つた衣服《きもの》は、再《ふたゝ》びびつしより[#「びつしより」に傍点]と濡《ぬ》れてしまつた。あゝ天《てん》は何《なん》とて斯《か》く迄《まで》無情《むじやう》なると、私《わたくし》は暫時《しばし》眞黒《まつくろ》な雲《くも》を睨《にら》んで、只更《ひたすら》怨《うら》んだが、然《しか》し後《のち》に考《かんが》へると、世《よ》の中《なか》の萬事《ばんじ》は何《なに》が禍《わざわひ》となり、何《なに》が幸福《こうふく》となるか、其時《そのとき》ばかりでは分《わか》らぬのである。
此《この》驟雨《にわかあめ》があつたばかりに、其後《そのゝち》深《ふか》く天《てん》の恩惠《おんけい》を感謝《かんしや》する時《とき》が來《き》た。
頓《やが》て雨《あめ》が全《まつた》く霽《は》れると共《とも》に、今度《こんど》は赫々《かく/\》たる太陽《たいよう》は、射《い》る如《ごと》く吾等《われら》の上《うへ》を照《てら》して來《き》た。印度洋《インドやう》中《ちう》雨後《うご》の光線《くわうせん》はまた格別《かくべつ》で、私《わたくし》は炒《い》り殺《ころ》されるかと思《おも》つた。其時《そのとき》第《だい》一に堪難《たえがた》く感《かん》じて來《き》たのは渇《かはき》の苦《くるしみ》、茲《こゝ》だ禍《わざわひ》變《へん》じて幸《さひはひ》となると言《い》つたのは、普通《ふつう》ならば、漂流人《へうりうじん》が、第《だい》一に困窮《こんきう》するのは淡水《まみづ》を得《え》られぬ事《こと》で、其爲《そのため》に十|中《ちう》八九は斃《たを》れてしまうのだが、吾等《われら》は其《その》難《なん》丈《だ》けは免《まぬ》かれた。先刻《せんこく》瀧《たき》のやうに降注《ふりそゝ》いだ雨水《あめみづ》は、艇底《ていてい》に一面《いちめん》に溜《たま》つて居《を》る、隨分《ずいぶん》生温《なまぬる》い、厭《いや》な味《あぢ》だが[#「味《あぢ》だが」は底本では「味《あぢ》だか」]、其樣事《そんなこと》は云つて居《を》られぬ。兩手《りようて》に掬《すく》つて、牛《うし》のやうに飮《の》んだ。渇《かはき》の止《と》まると共《とも》に次《つぎ》には飢《うゑ》の苦《くるしみ》、あゝ此樣《こん》な事《こと》と知《し》つたら、昨夜《さくや》海中《かいちう》に飛込《とびこ》む時《とき》に、「ビスケツト[#「ビスケツト」は底本では「ピスケツト」]」の一鑵《ひとかん》位《ぐら》いは衣袋《ポツケツト》にして來《く》るのだつたにと、今更《いまさら》悔《くや》んでも仕方《しかた》がない、斯《か》うなると昨夜《さくや》の暖《あたゝか》な「スープ」や、狐色《きつねいろ》の「フライ」や、蒸氣《じようき》のホカ/\と立《た》つて居《を》る「チツキンロース」などが、食道《しよくだう》の邊《へん》にむかついて來《く》る。そればかりか、遠《とほ》い昔《むかし》に、燒肉《ビフステーキ》が少《すこ》し焦《こ》げ※[#「過」の「咼」に代えて「咼の左右対称」、122−8]《す》ぎて居《を》るからと怒鳴《どな》つて、肉叉《フオーク》もつけずに犬《いぬ》に喰《く》はせてしまつた一件《いつけん》や、「サンドウイツチ」は職工《しよくにん》の辨當《べんたう》で御坐《ござ》るなどゝ贅澤《ぜいたく》を云《い》つて、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車《きしや》の窓《まど》から投出《なげだ》した事《こと》などを懷想《くわいさう》して、つくづくと情《なさけ》なくなつて來《き》た。然《しか》し此《この》日《ひ》は、無論《むろん》空腹《くうふく》の儘《まゝ》に暮《く》れて、夜《よ》は夢《ゆめ》の間《ま》も、始終《しじう》食物《しよくもつ》の事《こと》を夢《ゆめみ》て居《を》るといふ次第《しだい》、翌日《よくじつ》になると苦《くるし》さは又《また》一倍《いちばい》、少年《せうねん》と二人《ふたり》で色《いろ》青《あを》ざめて、顏《かほ》を見合《みあ》はして居《を》るばかり、果《はて》は艇舷《ふなべり》の材木《ざいもく》でも打
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