哀切の言葉を薄るものは何であらう。足もとには、おお 燼が吹きつのる熱気に擾れて、このひと時の己の愛だ。苦い獣皮のやうに、酒精と星々の拉ぎあふ死の穹窿を、諸手にかけて、――流沙の涯へ沈んでゆく。


  手

重い油をさすやうに
つめたく秘密にとり縋るもの
この手はひさしく慄えるペン軸を必死と握つてゐるのだが
苦がいインキは海の気配にそそがれて
やうやく乾いた血いろの底にしづんでゆく
日のひかりはこの手にとどかず
この手は叫ばずおのれに堪へ
沸騰するくらいナヂールの
大回転のしたにある
艱める翳に伏したままさうしてばらばらと頁を繰るのだが
水のいろが鹹くぶきみに漂ひながれて
虫をまいたやうに凶はしい
時をりあの強大なむなしさを孕む幕となつてなだれると
斑らの網に非情の鱶はみえかくれ
翳を払はふとするこの手もやがて見失はれる


  蠅の家族

しやべり散らすな 愛を
おもひきり胸には水をそそげ
斧は真冬の面《つら》に打ちこまれて其処に※[#「穴/果」、第3水準1−89−51]を張れば陣々と鳴る
岩乗な鉄拐のうしろに廻つて
つめたい風が煤を吹きまくる季節中
そいつのために諸々の夢の所在が冱えてくるのだ
冬は
はがねの仕組みで
むしろ万人の汚辱のなかに※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]しく立ち
悔いと怒りに充ちた己こそ千切れなければなるまい
離散する蠅の家族ら
道は道のあるかぎり覆され
とほく終駅にえぐられた跨線橋黒だ

己は血ぬれ
移動する雲と樹々と
そそがれる水のあふれ……
冬の※[#「穴/果」、第3水準1−89−51]が鉄拐の一撃にばりり壊されては
かすかに青みどりの合唱ながれ
胸のなかひとすぢの憂愁は逆毛だつ
たちまち荒々しい光がいり擾れてくるのを
己は身に浴びて目撃する冬だ


  悪霊

荒地をうしろにして少年は裸馬の上にゐた
ぎらとした染料を溶いて涯しない酷熱が来ると荒地の喚ばふ
その澱みくる酷熱にさきぶれて
渇きは風とともに舞ひあがる
むげんの引き波に漂ふものみなのしじま
鞭をならして砂塵に没した慓悍な影を見送れば
裸馬からずり落ちた少年に哄ひはいつそうむごく残され
さうしてひとたびは身を起したが
無用の白々しい風に捲かれた


  兇行

この夜明け。秋の眩輝《ぐれあ》に犯されて、困憊の、ざざといふ風や光や、その微かな参差の奥に人を喚んでゐる、あ
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