めのついたのを機に職業も捨てた。それから後は、茲《ここ》のアパート、あちらの貸家と、彼の一所不定の生活が始まった。

 今のはなしのうちの子供、それから大きくなって息子と呼んではなしたのは私のことだと湊は長い談話のあとで、ともよ[#「ともよ」に傍点]に云った。
「ああ判った。それで先生は鮨がお好きなのね」
「いや、大人になってからは、そんなに好きでもなくなったのだが、近頃、年をとったせいか、しきりに母親のことを想い出すのでね。鮨までなつかしくなるんだよ」
 二人の坐っている病院の焼跡のひとところに支えの朽《く》ちた藤棚があって、おどろのように藤蔓《ふじづる》が宙から地上に這い下り、それでも蔓の尖《さき》の方には若葉を一ぱいつけ、その間から痩せたうす紫の花房が雫《しずく》のように咲き垂れている。庭石の根締めになっていたやしお[#「やしお」に傍点]の躑躅《つつじ》が石を運び去られたあとの穴の側に半面、黝《あおぐろ》く枯れて火のあおりのあとを残しながら、半面に白い花をつけている。
 庭の端の崖下は電車線路になっていて、ときどき轟々《ごうごう》と電車の行き過ぎる音だけが聞える。
 竜《りゅう》の髭《ひげ》のなかのいちはつ[#「いちはつ」に傍点]の花の紫が、夕風に揺れ、二人のいる近くに一本立っている太い棕梠《しゅろ》の木の影が、草叢《くさむら》の上にだんだん斜にかかって来た。ともよ[#「ともよ」に傍点]が買って来てそこへ置いた籠の河鹿が二声、三声、啼《な》き初めた。
 二人は笑いを含んだ顔を見合せた。
「さあ、だいぶ遅くなった。とも[#「とも」に傍点]ちゃん、帰らなくては悪かろう」
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は河鹿の籠を捧げて立ち上った。すると、湊は自分の買った骨の透き通って見える髑髏魚《ゴーストフィッシュ》をも、そのままともよ[#「ともよ」に傍点]に与えて立ち去った。

 湊はその後、すこしも福ずしに姿を見せなくなった。
「先生は、近頃、さっぱり姿を見せないね」
 常連の間に不審がるものもあったが、やがてすっかり忘られてしまった。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は湊と別れるとき、湊がどこのアパートにいるか聞きもらしたのが残念だった。それで、こちらから訪ねても行けず病院の焼跡へ暫く佇《たたず》んだり、あたりを見廻し乍ら石に腰かけて湊のことを考え時々は眼にうすく涙さえためてまた茫然として店へ帰って来るのであったが、やがてともよ[#「ともよ」に傍点]のそうした行為も止んで仕舞った。
 此頃《このごろ》では、ともよ[#「ともよ」に傍点]は湊を思い出す度に
「先生は、何処《どこ》かへ越して、また何処かの鮨屋へ行ってらっしゃるのだろう――鮨屋は何処にでもあるんだもの――」
 と漠然と考えるに過ぎなくなった。



底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年8月24日第1刷発行
初出:「文芸」
   1939(昭和14)年1月号
入力・校正:鈴木厚司
1999年3月8日公開
2007年8月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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