見上げた。
お涌と島谷との結婚は、近来なんとなく健康のすぐれぬお涌自身の返事が煮え切らず、※[#「足へん+遷」、46−6]々《せんせん》として時期も定まらぬままに過ぎて行くうち、島谷は他の縁談に方向を求め、極めて事務的な結婚をして仕舞《しま》つた。
秋になつて、真黒な健康顔をして長い旅から帰つて来た皆三は、家に一休みすると突然母親にかういひ出した。
「今度、始めて家を離れて長旅をしてみましたが、なんとなく寂しい。やつぱり結婚でもしてみたくなりました。お涌さんを貰《もら》つて頂きませうか、お母さん」
その言葉は別だん、力の籠《こも》つた云ひ方ではなかつたが、母親には電気のやうに触れた。母親には、何か無理に力一ぱい自分がへし曲げてゐたものに最後に弾《は》ね返されたやうに感じた。(やつぱりさうか)と母親は観念すると、たちまちそこに宿命に素直になる歓びさへ覚えた。
「やつぱり、さうだつたのかお前」
母親の皆三にむけて微笑した眼には薄く涙さへ浮んだ。
長い年月が過ぎて行つた一夏、日比野皆三博士が、学生たちを指導してゐる間、葉山の別荘に夫人の涌子は子供たちと避暑に来てゐて、土曜日|毎《ごと》に油壺《あぶらつぼ》から帰つて来る良人《おっと》を待受けてゐた。子供といつても長男はもう工科の学生で、二十三歳になり、妹は婚約中の十九になつてゐた。
一色の海岸にうち寄せる夕浪《ゆうなみ》がやや耳に音高く響いて来て、潮煙のうちに、鎌倉の海岸線から江の島が黛《まゆずみ》のやうに霞《かす》んでゐる。
兄妹は逗子《ずし》へ泳ぎに行き、友だちのところへ寄つたと見えてまだ帰らない。涌子夫人は夫に食事の世話をしつゝ、自分も食べ終つた。二人とももう脂肪気の多い食品はなるべく避ける年配になつてゐた。
近くに※[#「魚+膠のつくり」、47−13]釣の火が見え出し、沖に烏賊《いか》釣りの船の灯《ひ》が冷涼《すず》しく煌《きら》めき出した。
冷した水蜜桃《すいみつとう》の皮を、学者風に几帳面《きちょうめん》に剥《む》き乍《なが》ら博士は云つた。
「じつに、静かな夕方だな」
「さうでご座いますね」
涌子夫人はまだこの時代に、この辺にはちらほらする蝙蝠の影を眺めてゐた。
「油壺の方で、毎晩食後にいろいろ教職員や学生の身の上話も出るのだが、あれでなかなか複雑な経歴なものもある。それに較べると
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