ないだって、ご馳走あげるわよ」
柚木の額の汗を掌でしゅっ[#「しゅっ」に傍点]と払い捨ててやり
「こっちにあるから、いらっしゃいよ。さあね」
ふと鳴って通った庭樹の青嵐を振返ってから、柚木のがっしりした腕を把《と》った。
さみだれが煙るように降る夕方、老妓は傘をさして、玄関横の柴折戸《しおりど》から庭へ入って来た。渋い座敷着を着て、座敷へ上ってから、褄《つま》を下ろして坐った。
「お座敷の出がけだが、ちょっとあんたに云《い》っとくことがあるので寄ったんだがね」
莨入《たばこい》れを出して、煙管《きせる》で煙草盆代りの西洋皿を引寄せて
「この頃、うちのみち子がしょっちゅう来るようだが、なに、それについて、とやかく云うんじゃないがね」
若い者同志のことだから、もしやということも彼女は云った。
「そのもしやもだね」
本当に性が合って、心の底から惚《ほ》れ合うというのなら、それは自分も大賛成なのである。
「けれども、もし、お互いが切れっぱしだけの惚れ合い方で、ただ何かの拍子で出来合うということでもあるなら、そんなことは世間にいくらもあるし、つまらない。必ずしもみち子を相手取るにも当るまい。私自身も永い一生そんなことばかりで苦労して来た。それなら何度やっても同じことなのだ」
仕事であれ、男女の間柄であれ、混り気のない没頭した一途《いちず》な姿を見たいと思う。
私はそういうものを身近に見て、素直に死にたいと思う。
「何も急いだり、焦《あせ》ったりすることはいらないから、仕事なり恋なり、無駄をせず、一揆《いっき》で心残りないものを射止めて欲しい」と云った。
柚木は「そんな純粋なことは今どき出来もしなけりゃ、在るものでもない」と磊落《らいらく》に笑った。老妓も笑って
「いつの時代だって、心懸けなきゃ滅多にないさ。だから、ゆっくり構えて、まあ、好きなら麦とろでも食べて、運の籤《くじ》の性質をよく見定めなさいというのさ。幸い体がいいからね。根気も続きそうだ」
車が迎えに来て、老妓は出て行った。
柚木はその晩ふらふらと旅に出た。
老妓の意志はかなり判って来た。それは彼女に出来なかったことを自分にさせようとしているのだ。しかし、彼女が彼女に出来なくて自分にさせようとしていることなぞは、彼女とて自分とて、またいかに運の籤のよきものを抽《ひ》いた人間とて、現実では出来ない相談のものなのではあるまいか。現実というものは、切れ端は与えるが、全部はいつも眼の前にちらつかせて次々と人間を釣って行くものではなかろうか。
自分はいつでも、そのことについては諦《あきら》めることが出来る。しかし彼女は諦めということを知らない。その点彼女に不敏なところがあるようだ。だがある場合には不敏なものの方に強味がある。
たいへんな老女がいたものだ、と柚木は驚いた。何だか甲羅を経て化けかかっているようにも思われた。悲壮な感じにも衝《う》たれたが、また、自分が無謀なその企てに捲《ま》き込まれる嫌な気持ちもあった。出来ることなら老女が自分を乗せかけている果しも知らぬエスカレーターから免れて、つんもりした手製の羽根蒲団のような生活の中に潜《もぐ》り込みたいものだと思った。彼はそういう考えを裁くために、東京から汽車で二時間ほどで行ける海岸の旅館へ来た。そこは蒔田の兄が経営している旅館で、蒔田に頼まれて電気装置を見廻りに来てやったことがある。広い海を控え雲の往来の絶え間ない山があった。こういう自然の間に静思して考えを纏《まと》めようということなど、彼には今までについぞなかったことだ。
体のよいためか、ここへ来ると、新鮮な魚はうまく、潮を浴びることは快かった。しきりに哄笑《こうしょう》が内部から湧き上って来た。
第一にそういう無限な憧憬にひかれている老女がそれを意識しないで、刻々のちまちました生活をしているのがおかしかった。それからある種の動物は、ただその周囲の地上に圏の筋をひかれただけで、それを越し得ないというそれのように、柚木はここへ来ても老妓の雰囲気から脱し得られない自分がおかしかった。その中に籠《こ》められているときは重苦しく退屈だが、離れるとなると寂しくなる。それ故に、自然と探し出して貰いたい底心の上に、判り易い旅先を選んで脱走の形式を採っている自分の現状がおかしかった。
みち子との関係もおかしかった。何が何やら判らないで、一度稲妻のように掠《かす》れ合った。
滞在一週間ほどすると、電気器具店の蒔田が、老妓から頼まれて、金を持って迎えに来た。蒔田は「面白くないこともあるだろう。早く収入の道を講じて独立するんだね」と云った。
柚木は連れられて帰った。しかし、彼はこの後、たびたび出奔癖がついた。
「おっかさんまた柚木さんが逃げ出してよ」
運動服を
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