へ移るとき、わざとよろけて柚木の背を抱えるようにして掴《つかま》った。柚木の鼻に香油の匂いがして、胸の前に後|襟《えり》の赤い裏から肥った白い首がむっくり抜き出て、ぼんの窪《くぼ》の髪の生え際が、青く霞めるところまで、突きつけたように見せた。顔は少し横向きになっていたので、厚く白粉《おしろい》をつけて、白いエナメルほど照りを持つ頬から中高の鼻が彫刻のようにはっきり見えた。
老妓は船の中の仕切りに腰かけていて、帯の間から煙草入れとライターを取出しかけながら
「いい景色だね」と云った。
円タクに乗ったり、歩いたりして、一行は荒川放水路の水に近い初夏の景色を見て廻った。工場が殖え、会社の社宅が建ち並んだが、むかしの鐘《かね》ヶ|淵《ふち》や、綾瀬《あやせ》の面かげは石炭殻の地面の間に、ほんの切れ端になってところどころに残っていた。綾瀬川の名物の合歓《ねむ》の木は少しばかり残り、対岸の蘆洲《あしず》の上に船大工だけ今もいた。
「あたしが向島の寮に囲われていた時分、旦那がとても嫉妬家《やきもちやき》でね、この界隈《かいわい》から外へは決して出してくれない。それであたしはこの辺を散歩すると云って寮を出るし、男はまた鯉釣りに化けて、この土手下の合歓の並木の陰に船を繋《もや》って、そこでいまいうランデブウをしたものさね」
夕方になって合歓の花がつぼみかかり、船大工の槌《つち》の音がいつの間にか消えると、青白い河|靄《もや》がうっすり漂う。
「私たちは一度心中の相談をしたことがあったのさ。なにしろ舷《ふなばた》一つ跨《また》げば事が済むことなのだから、ちょっと危かった」
「どうしてそれを思い止ったのか」と柚木はせまい船のなかをのしのし歩きながら訊いた。
「いつ死のうかと逢う度毎に相談しながら、のびのびになっているうちに、ある日川の向うに心中|態《てい》の土左衛門が流れて来たのだよ。人だかりの間から熟々《つくづく》眺めて来て男は云ったのさ。心中ってものも、あれはざま[#「ざま」に傍点]の悪いものだ。やめようって」
「あたしは死んでしまったら、この男にはよかろうが、あとに残る旦那が可哀想だという気がして来てね。どんな身の毛のよだつような男にしろ、嫉妬をあれほど妬《や》かれるとあとに心が残るものさ」
若い芸妓たちは「姐さんの時代ののんきな話を聴いていると、私たちきょう日の働き方が熟
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