すみれの色が紫だってことはもうすっかり僕に判ってるんだよ。だけど僕の知り度《た》いのは紫ってどんな色か……そればかりではないんだよ。僕は君と結婚したてには夢中で、白だの紅だの青だの黄だのって色彩の名を教わって覚えたろう。だけど、実際はその白や紅や青や黄やが、どんないろ[#「いろ」に傍点]だか判ってやしなかったんだよ」
 三木雄の始の口調は如何にも智子を詰るようだったが中途から思い返したらしく淋しい微笑を口元に泛《うか》べながら云った。
 珍らしく初夏近くまで裏の木戸傍に咲き残っていた菫《すみれ》の一束を摘んだ夜、智子は食後の夫の少しほてったような掌にその一摘みのすみれの花を載せてやった。その紫のいろが、またしても夫の憂いの種になろうとは思わなかった。
 智子はふとアンドレ・ジイド作の田園の交響楽の一節を思い出した。
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盲目少女ジェルトリウド「でも白、白は何に似ているかあたしには分りませんわ」
聞かれた牧師「……白はね、すべての音が一緒になって昂まったその最高音さ、恰度《ちょうど》、黒が暗さの極限であるように……」
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がこれではジェルトリウドが納得出来ないと同じように自分にも満足が行かなかった。
 智子はこれと同じ場合に置かれている自分を知ってはらはらと涙を流した。
「今にだんだんだんだん色々なこと分るようにして上げますわ」
 智子は心に絶望に近いものを感じながら、こんなお座なりを云ったことが肌寒いように感じられて夫の方を今更ながら振り返った。悲しみをじっと堪えるように体を固くしている夫の姿が火の下で半身空虚の世界を覗いている様に見えた。
 智子は、だんだん眼開きの世界の現象を夫に語るのを遠慮し始めた。夫は其処から始めのうちの歓喜とは反対に追々焦燥と悩みをばかり受け取るようになった。鳥や虫や花の模型を土で拡大して造らせることも控え勝ちになった。夫は仕舞いには撫《な》でて見るその虫の這う処、その鳥類の飛躍する様子――もっと困ったことにはふだん按撫によってばかり知っている愛する智子の姿勢の歩行する動作までがはっきり見度い念願に駆られて来た。
 智子は危機の来たのを感じた。智識を与えるほどその体験が無いために疑いや僻《ひがみ》を増して来る。闇に住む人間と明るみに住む人間との矛盾と反撥、そしてその矛盾や反撥には愛という粘り強い糸が縦横に絡《から》んでいるだけに一層仕末が悪いことである。智子はこういうときにこそ夫婦情死というものが起るのだろうと思ってますます肌寒い思いがした。

 智子が必死の思案の果てに思極めたことは――智子がなまじ自分の智能を過信して夫を眼開きの世界へ連れて来ようとした無理を撤回《てっかい》することだった。夫を本来の盲目の国に返し自分は眼開きの国に生きて周囲から守ること――つまり盲人本来の性能に適する触覚か聴覚の世界へ夫を突き進ませて其処から改めて人生の意義も歓喜も受け取らせる事であった。

 梅の樹に梅の花咲くことわりをまことに知るはたはやすからず(岡本かの子詠)
 十何年後琴曲界の一方の大家として名を成した北田三木雄の妻智子は昔から盲人が琴曲界に名を成したりするのをあまり単純な道のように考えていた自分を振り返って恥じる日があった。誰もがいつの間にか行く常道、その平凡こそなまじ一個人の計《はから》いより何程かまさった真理を包含しているものなのだろうということを自分自身に感得した智子であった。



底本:「岡本かの子全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第二卷」冬樹社
   1974(昭和49)年6月30日初版第1刷
初出:「むらさき」
   1937(昭和12)年1月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年1月25日作成
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